2025/12/02

遣唐使(3)

遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。古代の網代帆は、竹や葦を薄く削った物や、棕櫚(しゅろ)や笹の葉を平らに編んで作った網代を籠目(かごめ)に編んだ竹に縛って繋ぎ合わせた帆で、開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく、優れた帆走性を持っている。船体は耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。

 

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に、佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し、乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。

 

東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには、12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。外交の条件に拘束されない遣渤海使では、気象の良好な時節を活用して、成功率の高い航海がなされている。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする。

 

遣唐使の行程

羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で、近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から、長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。

 

長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と、内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や、唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には、関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば、大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。

 

また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した(ただし、これについては反論もある)。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要から、その原則が破られることは珍しくはなかった。

 

最後に遣唐使は、皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。

 

なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため、判官孫興進が大使の代行を務めた)が、これに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には、遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)。

 

遣唐使の選考基準

『伊吉博徳書』『懐風藻』『続日本後紀』『文徳実録』などの諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘がある。

 

遣唐使の衰退

遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では、874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

 

既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。

 

当時の日本の対唐観の変化として「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。