2025/12/31

菅原道真(4)

讃岐

道真は、詩臣として中央で天皇のそばにお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていた。その為、自分が地方官として讃岐に赴任することに葛藤していた。赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑い、また、道真は家族愛が人一倍強かったので、家族のそばにいれない寂しさも綴っている。

 

しかし、元来の生真面目で清廉な性格から、白居易の兼済(広く人民を救済)という志を信条とし、自ら酒を醸して酒宴を催し村人と親交を深めたり、『寒早十首』『冬夜九詠』などで民の悲惨な実情を見分するなど、善政を執り行うよう努めた。

 

のちに、清廉と謹慎を心がけた政治をしたが、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できなかったことを悔いている。

 

左遷

『政事要略』巻二十二によれば、大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。

 

『菅家後集』「叙意一百韻」には、左遷道中の様子として反道真派の奸計により絶えず危険にみまわれ、落し穴などの罠や誅伐として行く手に潜伏していた刺客に襲われたこと、傷ついた駄馬や損壊した船を与えられたことなど、執拗な嫌がらせをうけていたことが綴られている。

 

大宰府

讃岐時代と同様に、北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており「粛清することはもはや不可能」と評する程の治安の悪さを綴っている。

 

また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。

 

『菅家後集』「讀家書」では、久しぶりに妻から手紙がきたことを書いている。道真は、妻が薬(生姜と昆布)を送るなど自分を労わる気持ちは嬉しいが、家族の生活が苦しいことをひた隠しにしていることが、かえって自分を悲しめ心配させているのだと綴っている。

 

また、「詠樂天北窓三友詩」によれば、詩友として≪死≫という真の友だけが残ったとし、謫居の北の窓の部屋に時たま現れる雀と燕の親子を良友とし、彼ら雌雄が相互支えあい雛を養育し飢えさせることのない慈しみある行動は、家族を離散させてしまった私では遠く及ばないとし、その口惜しさを言葉にすることもできず、血の涙を流しながらただ天神地祇に祈るのみ。そして、昔の友は喜び今の友は悲しみとし、それぞれ異なる友だが、それはそれで同一のものなのかもしれない、と結ぶ。

 

伝説

出生

喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生天満宮(堺市美原区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。

 

道真の生誕地については諸説ある。各地に伝わる『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より、忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿)なる56歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないので、そなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという。

 

長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。

 

菅原天満宮によれば、是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。

 

滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。あらすじは、あるとき漁師の桐畑太夫のところへ美しい天女が舞い降りる。太夫は羽衣を隠し、無理矢理その天女と夫婦になる。そして、玉のような男の子が産まれ陰陽丸と名づけられる。しかし、天女が羽衣を見つけ天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり、憐れに思い引き取り養育することにした。その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさい、その子供を養子にする。この子供こそ、のちの菅原道真だという。

 

また、別説では、桐畑太夫と天女のあいだに産まれた陰陽丸、菊石姫の兄妹としている。

江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。

『野馬台詩(歌行詩)』の主釈によれば、菅原道真と吉備真備は兄弟で、兄が道真、弟が真備だという。

道真は丑年丑の日丑の刻生まれだったという伝承がある。

2025/12/30

歎異抄(3)

第九条は

「念仏を称えても、経文にあるような躍り上がるような喜びの心が起こらず、少しでも早く極楽浄土に行きたいという気持ちにならないのは何故でしょうか」

という唯円の疑問に対しての問答を長文で記している。

 

親鸞は

「この親鸞も同じ疑問を持っていたが、唯円も同じ気持ちだったのだな。」

と答えている。

 

そして

「よく考えてみると躍り上がるほど喜ぶべきことを喜べないからこそ、ますます極楽往生は間違いないと思える。」

としている。

 

その理由を

「喜ぶべきことを喜べないのは煩悩の仕業であり、阿弥陀仏はそんな煩悩で一杯の衆生を救うために本願を建てられた。こんな我々のための本願であると知らされると、ますます頼もしく思える。」

と答えている。

 

次に、早く極楽に行きたくないどころか、少しでも病気になると「死んでしまうのでは」と不安になるのも煩悩の仕業とし

「長い間、輪廻を繰り返して滞在してきたこの苦悩に満ちた世界だが、それでも故郷のような愛着があり、行ったことがない極楽には早く行きたい気持ちも起こらない。これらも煩悩が盛んだからである。」

 

「阿弥陀仏は、早く極楽往生したくないという我々を特に哀れに思っておられる。だからこそ阿弥陀仏の願いは益々頼もしく、極楽往生は間違いないと思われる。もし躍り上がるような喜びの心が起こり、極楽浄土に早く行きたいという気持が起こるなら、自分には煩悩がないのかと疑問に思ってしまうだろう」

と説いている。

 

第十条は、他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできない、一切の人智の計らいを超越したものである、と説かれている。

 

別序

親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあるとする。

 

第十一条 - 第十八条

第十一条以降は、異義を11つ採り上げ、それについて逐一異義である理由を述べている。

 

経典を読まず学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視するものだと論じている。また、どんな悪人でも助ける本願だからといってわざと好んで悪を作ることは、解毒剤があるからと好んで毒を食するようなもので邪執だと破った上で、悪は往生の障りではないことが説かれている。

 

後序

後序は、それまでの文章とは間を置いて執筆されている。

 

親鸞が法然から直接教え受けていた頃

「善信(親鸞)が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)

と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えた。

 

それに対し法然は

「源空(法然)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えた。

 

作者は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き本書を記したと述べている。

 

流罪にまつわる記録

承元の法難に関する記録が述べられている。親鸞が「愚禿親鸞」と署名するようになった謂れが書かれている。

 

写本

重要な写本としては、蓮如本、端坊旧蔵永正本などがあり、蓮如本が最古のものである。2015年現在、原本は発見されていない。

 

蓮如本と永正本とには、助詞などの違いが見られるが、全体の内容として大きな違いは無い。最も原型的な古写本と考えられる蓮如本・永正本はともに「附録」と「蓮如の跋文」を備えているが、後代のものには、これらを欠く写本も存在する。

 

上述のごとく、蓮如本と永正本には、蓮如の署名と次のような奥書が付されている。

 

右斯聖教者為当流大事聖教也 (右、かくの聖教は、当流大事の聖教と為すなり)

於無宿善機無左右不可許之者也 (宿善の機無きにおいては、左右無く之を許すべからざるものなり)

 

釈蓮如 御判

 

すなわち、本書は「当流大事の聖教」ではあるけれど、「宿善の機無き」者(仏縁の浅い、仏法をよく理解していない人達)にはいたずらに見せるべきではない、と蓮如は記している。しかし、これは禁書や秘書の類といった意味ではなく、蓮如が著した『御文』(『御文章』)においては、『歎異抄』の内容の引用が随所に見られる。

 

親鸞思想との相違点

歎異抄は書名が示すように、当時の真宗門徒たちの間で広がっていた様々な異説を正し、師である親鸞の教えを忠実に伝えようという意図の下で著されたものである。しかしながら、親鸞の著作から知られる思想と、歎異抄のそれとの相違を指摘する学者も多い。たとえば仏教学者の末木文美士は、歎異抄作者の思想はある種の造悪無碍の立場を取っているとし、これは親鸞の立場とは異なるとする。

 

また、遠藤美保子は

「悪を行うことは避けられないことであり、そのような悪人だからこそ救われる」

という論理によって自己を肯定する歎異抄の思想は、親鸞とは異なっているとする。さらに遠藤は歎異抄の「本願ぼこり」という邪義について、本書にしか見いだされず、そもそも本当に存在した邪義かどうかについても疑問を呈している。

 

作者は歎異抄において、阿弥陀仏の本願を盾に悪行をおこなう者に対して、忠告は行なっているが彼らの往生は否定せず、かれらも確実に浄土に往生できるとする。しかしながら、親鸞は書簡にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べている。

 

本願寺関係者撰述説

塩谷菊美は、本願寺関係者が覚如の『口伝鈔』や『改邪鈔』などをもとに歎異抄を編纂したという説をとなえ、本書が「親鸞研究の一級史料」として用いられていることに異論を述べている。

 

塩谷は、本書が『口伝鈔』や『改邪鈔』を素材とし、これらの資料の背景にあった聖教の「悔い返し」などの文脈が無視されて使われていることを文献間の比較によって指摘した。これによって塩谷は、いずれかの本願寺関係者が

「親鸞の元に常時付き従っていた如信による口伝の書(『口伝鈔』)があるならば、弁舌巧みで知られた唯円による親鸞口伝の書もあるはずだ」

と考えて撰述したとする仮説を提示している。

2025/12/25

菅原道真(3)

人物

人柄

詩作にも官能的で優美な表現を取り入れており、宮廷詩では美人舞妓の踊り乱れた姿や、髪・肌・汗・香・化粧・衣などの様子を詩で仔細に鮮やかに表現している。ただし、常に浮かれていたわけではなく、特に盛り上がっている宴会のみで、普段の宴会では謹厳な態度を守り、自分の言行を抑える、というように二つの顔を使い分けていたという。

 

子煩悩で子供に関しての詩を多く残しており、菅家文草「夢阿満」では、“阿満”という一番可愛がっていた子が亡くなると、神仏を恨み世界から天地がなくなった、と嘆くほど悲しんでいる。しかし、最後に幼い阿満が三千世界に転生するときに迷わぬよう、観自在菩薩に祈っている。

 

根っからの詩人で、詩が思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみながら、周りの物に書き付けるほどだった。

 

自身の人生について、昔の栄達していたときは、世俗の煩わしさに縛られ窮屈だったが、今は罪を問われて左遷され、荒廃したあばら屋に閉じ込められた不自由な暮らし、と大宰府で述懐している。

 

どんな大量の黄金も、父祖から代々伝わった学識には遠く及ばない、としている。

「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と評するほど、越州国の風景を気に入っていたという。

 

家族や気の置けない友人達との語らい、馬で自然を駆け巡ることなどを好んだが、大量の行政文書をかたづけるなど仕事に忙殺されることだけは嫌っていた。

 

梅の花を好んだことで有名だが、桜花の美しさを

「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称え、菊の花も若い頃から栽培するほど好み、薔薇の美しさを、妖艶で人を虜にして惑わす妖魔と例えている。

 

これに、雪と月を加えた「雪月花」を好んだとされ、雪は女性の化粧や老人の白髪の表現に、月は美しさはさることながら、正邪を照らしだす真澄鏡に例えたり、擬人化し「問秋月」「代月答」のように自己問答の形式で漢詩がつくられ、月光を誰も知らない自身の心の奥底にある清廉潔白さを照らし出す光として題材にされた。

 

思想

『菅家文草』によると、道真は願文作成により、儒教的言説に基づいて世界の差異(身分差別、男女差別など)を構造化し、仏教的基本原理(輪廻・化身・垂迹等々)とアナロジー(類推)を用いることで、隣接する概念間の差異を次々と消去し、「万物の均質化」と「存在の連鎖」を生み出した。

 

未だかつて邪は正に勝たず(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである)。

 

全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない。

 

紀長谷雄にたいし、世間では偉そうにべらべら喋る大学者さまが我が物顔で通るたびに有難がられているが、君が口を閉ざしても君の詩興が衰えることはないから心配するな、と励ましの詩をおくっている。

 

香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず(香りは、わざわざ火を用いて焚くものではなく、清らかな心の中に薫るもの。同じように、花は春が来るからつぼみが開くのではなく、正しい心で合掌するその手の中に花は咲くもの)。

 

「閑思共有雕蟲業、應化使君昔詠詩」篆刻道が神仏に通ずることを示す。

 

交流

師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後、再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。

 

紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったとされ、道真の妻を逃がしたという伝承もある。また、『扶桑略記』によれば、百人一首の舞台として有名な宇多天皇御一行遊覧の際に、長谷雄を求めて叫んだほど長谷雄への信頼があった、と同時に宇多天皇厚遇の時期であっても道真が孤独だったことがわかる。

 

在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。

 

天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。

清廉剛直な武官の藤原滋実とも親交があった。滋実は、元慶の乱の鎮圧に参加し俘囚に配給して懐柔し、反乱した夷俘を討たせる役を命じられ見事成し遂げる。のちに陸奥国司となる。死因についてははっきりせず、部下に不正を行っていた輩が多く、呪詛され殺されたのではないか、という噂がなされたため道真は五男菅原淳茂に調査を命じている。滋実が逝去したさい、誄歌「哭奥州藤使君」をおくっている。

 

かつて道真は滋実より

「私は、あなたさまよりひそかに恩恵をうけています。私は、死のうが生きようが、生死を超えてあなたより受けた、このご恩に報いたいと思っております」

と、熱い想いをつげられたという。それを回顧した道真は、自身の正義の是非について裁いてくれるよう、また、正義をつらぬくための手助けになってくれるよう、滋実の霊に懇願し悲嘆にくれている。ほかに、東国と中央政府の癒着した腐敗政治についても言及している。

 

『十訓抄』などには時平の弟、藤原忠平とは共に宇多天皇主催の歌会に出たり、常に手紙を贈り合うなど親交があり、道真の左遷にも反対したとされる。しかし坂本太郎は道真左遷時の忠平は従四位下にすぎず、時平に反対することなどできなかったと指摘している。これは北野天満宮の支援者であり、忠平の子孫である摂関家による付会ではないかと見られている。

 

渤海使で日本に帰化したとされる王文矩とも親交があったという。

 

道真は、菅家廊下の弟子の中で文室時実を一番可愛がっていた。時実は、若い頃から匏(能無しという意味)と言われる苦学生で、食べることもままならないほど貧しく、そのうえ年老いた母親も抱えていた。道真が讃岐赴任のためいなくなったあとも、独り努力を重ね見事難関の省試に合格し、その報告をしにきた彼にたいし、道真は称賛と若い文章生にいじめられないか心配する詩を綴っている。

 

13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。

 

しかし、『菅家文草』「書斎記」によれば、友人でも親しい者とそうでない者がおり、そうでない者として、さして気が合うわけでもないのに愛想よく寄ってくる者、腹の底が判らない口先だけは変に親しい者、休息と称して無理矢理押し入ってくる者、秘蔵の書や書物を乱暴に扱う者、自分が苦労して書物から抜粋した短冊の知識を理解し勝手に持ち出してしまう者、理解できず破り捨ててしまう者、先客である大切な友人の面会を無視して、特に用もないのに強引に面会にくる者をあげ、自分を本当に理解できる友人は3人ぐらいしかおらず、その3人も失ってしまうのではないかと戦々恐々としている。

 

また、学者や貴族などの恨み妬みが凄まじく、『菅家文草』「思ふ所有り」「詩情怨」では、巷で出回った怪文書の作者として濡れ衣を着せられ誹謗中傷されたこと、「博士難」では道真が文章博士に就任するとき、父是善から味方がいなく孤独になることを助言されており、就任わずか三日目にして、まわりから誹謗中傷する噂がなされたことが書かれている。

 

絵に描いたものが飛び出して実体化するという逸話をもつ、宮廷絵師巨勢金岡とも親交があったとされる。

 

藤原南家出身の藤原菅根は、若い頃は菅家廊下で学んでいた。しかし、道真に投げやりな態度を難詰されたり、宴で歌った歌を全く認められないなどしたため逆恨みし、成人して官僚になっていくにつれ、藤原時平率いる藤原北家へ接近していったとされる。

 

安倍興行、島田良臣、菅野惟肖、巨勢文雄等の学者たちとは、地方官時代に文通で遠く離れたお互いを励ましあうなど、詩友として交流があったという。ただし巨勢文雄については、試験で文雄が称賛し推薦した弟子の三善清行を、試験官だった道真が嘲笑し落第させている。これが、清行との確執の発端とされている。

 

対策及第の試験官だった都良香が後年、評価に不服だった道真の怨念に当たり亡くなったとする伝説がある。

歎異抄(2)

第一条 - 第十条

第一条から第十条は、親鸞が直接作者に語ったとされる言葉が書かれている。

 

第一条では、「阿弥陀仏のすべての人々を救うという本願により、浄土に生まれさせて貰うために念仏をしようと思いたった時から、阿弥陀仏の絶対に見捨てないとの利益に預かることができる。阿弥陀仏の本願は老少・善悪の人は関係なく、ただ信心(阿弥陀仏の本願に対し微塵の疑いもなくなった心)が要であると考えるべきである。なぜならば(阿弥陀仏の本願は)罪深く、煩悩が盛んな人々を助けるためのものだからである。本願を信じる者には、念仏以外の善は不要である。念仏に勝る善などないからである。また、どんな悪も恐れることはない。阿弥陀仏の本願を妨げる悪などないからである。」と説かれている。

 

第二条は、善鸞などの異説について、関東から上洛して親鸞に直接尋ねに来た同行・僧侶達への親鸞の回答を長文で記している。明確な答えを期待していたであろう彼らに対し、親鸞は

「はるばる関東から命がけで京都にまでやってきたのは明確な回答がほしいからだろうが、それは間違いである。答えは奈良や比叡山にまします立派な学僧たちに聞いたらいいだろう。この親鸞がやっていることは『(罪悪深重の我々衆生が助かる道は)、ただ念仏して弥陀の本願に救い取られる以外にない』という法然上人の教えに従って念仏している以外に何もない。たとえ法然上人にだまされていて、念仏をして地獄に落ちたとしても何の後悔もない。

 

もし、私がそれまでの念仏以外の修行を続けていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もあろうが、どんな修行も中途半端にしかできない私は、どのみち地獄が定められた住み家だからである。もし弥陀の本願は真実ならば、それ一つを教えている釈尊の説法も、善導の解釈も、法然の言葉も嘘であるはずがない。だから、そのことをそのまま伝えているこの親鸞の言うことも、そらごととは言えないのではなかろうか - 愚かな私の信心は、このようなものである。この上は念仏を信じるも捨てるも、各々の勝手である」

と、一見突き放すように答えている。

 

この親鸞の回答は「念仏称えたら地獄か極楽か、私は全く知らない」と文字通り言っているのではなく、同様に「弥陀の本願まことにおわしまさば…」という一節も「もし本願がまことであるとするならば」という仮定ではなく「弥陀の本願よりも確かなものは、この世にない」という親鸞の信心を言い表したものであると言う説がある。

 

第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

は、現在でもよく引用されている。

 

「善人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや悪人が往生できないわけがない。しかし世間の人は『悪人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや善人が往生できないわけがない』では? と常に言う。これは一応道理に聞こえるが、他力本願のおこころに背いている。」

と説いている。

 

「自力で善を成そうとする人は、阿弥陀仏を信じてお任せしようとする心(他力を頼む心)が欠けているから阿弥陀仏の本願の主対象ではなくなっている。でもそんな心を改めて、心から他力を頼めば本当の浄土に生まれることができる。」

としている。

 

「煩悩まみれの我々は、どんな修行をしたところで迷いの世界から抜け出ることはできない。そんな我々を哀れんで起こされた阿弥陀仏の本願の主目的は、悪人が成仏できるようにするためであるから、阿弥陀仏を信じてすべてをお任せできる悪人こそ、最も往生できる人である。」と説いている。

 

ここで言う「善人」「悪人」などの詳細は、悪人正機を参照のこと。

 

第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれている。聖道仏教の慈悲とは人間の頭で考える慈悲であり、それでいくら人々を救おうとしても限界がある。だから生きているうちに早く他力の信心を得て浄土に行って仏となり、仏の力によって人々を弥陀の浄土へと導くことこそが真の慈悲=浄土の慈悲である、と説かれている。

 

第五条では、「親鸞は一度も父母のために念仏したことがない」として、追善供養を否定している。念仏は自分の善ではないからである。そんな形ばかりの追善供養をするより、生きているうちに早く他力の信心を得なさい。そうすれば浄土で仏となって自由自在に多くの縁者の救済ができるようになるのだから、と説いている。

 

第六条では、この親鸞には弟子など一人もいない。表面上は親鸞の下で仏法を聞き念仏を称えるようになったように見えるかもしれないが、これも本当は全く弥陀のお力によるものである。だから「この人達は俺の裁量で仏法聞くようになったのだ」などと考えるのは極めて極めて傲慢不遜であり、決してあってはならぬことだ。だから人と人との複雑な因縁に拠って、別の師の下で聞法し念仏を称えるようになった人は、浄土へは行けないなどとは決して言うべきではない、と説かれている。

 

第七条では、ひとたび他力の信心を得た者=念仏者にとっては、悪魔・外道、図らずも造ってしまう悪業など、如何なるものも極楽往生の妨げにはならないと説かれている。

 

第八条では、他力の信心を得た者の称える念仏は自力(自分の計らい)で行うものではないので、行でも善でもないと説かれている。

2025/12/22

菅原道真(2)

左遷と死

昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、125日に大宰員外帥に左遷された。宇多上皇は、これを聞き醍醐天皇に面会しとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、また道真の弟子であった蔵人頭藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった。また、長男の高視を始め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降、現在でもこの見解が一般的である。

 

道真と時平の関係は険悪、あるいは対立的であったと捉えられることが多いが、実際は道真の家と時平の家は、それぞれの父親の代から関わりが深く、度々詩や贈り物を交わす関係であった。ただし、贈答詩については、道真から発したものはなく時平への返答のみである。昌泰2年(899年)には、時平が父基経の事業を受け継いで建設した極楽寺(現在の宝塔寺の前身)を定額寺とするための願い状の代筆を道真に依頼するなど、時平は文章家としての道真を高く評価していた。道真の失脚は単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層の同意があった。

 

また『扶桑略記』延喜元年七月一日条に引く『醍醐天皇日記』は、藤原清貫が左遷後の道真から聞いた言葉として

「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった。又仁和寺(宇多上皇)の御事に、数(しばしば)承和の故事(承和の変)を奉じるのだということが有った」

と記載している。

 

これにより、廃立計画自体は存在したという見解もある。ただし、藤原清貫の報告について『菅家後集』で清貫が道真と面会した形跡がないことから、実際にあった出来事なのか疑問も指摘されている。また、廃立計画の背景として、時平の妹である穏子の入内を望む醍醐天皇に対して、阿衡事件の経緯から基経の娘(時平の姉妹)の入内を拒んできた宇多上皇が反発したとする指摘がある。

 

太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)225日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。

 

死後の復権

延喜6年(906年)冬、道真の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している。延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる。延喜13年(913年)には、右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。

 

延喜23年には、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。『日本紀略』は、これを道真の恨みがなしたものだとしている。420日(923513日)、道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られた。

 

延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった。

 

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)628日には贈正一位左大臣、同年閏1020日には太政大臣が贈られた。

 

家系

父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父は、ともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している。

 

正室は島田忠臣の娘、島田宣来子。忠臣は父も不明であるという家系の出身であったが、紀伝道においては道真の師であり、度々道真と詩や手紙を交わしあう関係であった。子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた、学者の家として長く続いた。高視の曾孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。

 

特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。明治時代になり5つの堂上家は華族に列し、当主はいずれも子爵に叙せられている。また高辻家からは西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として現代に至る。

 

事績・作品

百人一首 菅家(菅原道真)

このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに

著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、『寛平御時后宮歌合』や『是貞親王歌合歌』などの和歌と、それを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、原撰本(上下巻)を道真、増補本(下巻に補填を加えたもの)を源当時ではないかという指摘がある。

 

私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。

 

六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり、編纂者から名は外されている。

 

祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は、清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

 

和歌

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)

 

海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)

 

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)

 

水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉

 

君が住む 宿のこずゑの ゆくゆくと 隠るるまでに かへりみしはや(『拾遺和歌集』巻六。歌集のもととなった『拾遺抄』の詞書には、「流され侍はべて後、妻のもとに言ひをこせて侍ける」と相手を明記。)

 

漢詩

月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨(月は雪の如く輝き 梅花は星の照るに似る 憐れむべし金鏡転じ 庭上に玉房馨れるを)十一歳の道真が詠んで、周囲の大人たちを感嘆させたという漢詩。

 

駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った播磨国明石駅家の駅長の同情に対して答えたもの。)

 

去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。)

 

彫刻

木造十一面観音立像 - 平安時代初期9世紀 -カヤ材の一木造で、彩色を施さない素地仕上げ。カヤ材をビャクダンの代用材として用いた檀像様(だんぞうよう)の作品。像高98cm。道明寺蔵の国宝

2025/12/21

歎異抄(1)

『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。『歎異鈔』とも。

 

作者について

作者については、現在では唯円とするのが一般的だが、他説として如信説・覚如説がある。また、近年では覚如以後の本願寺関係者が作者であるとする説もある。

 

如信説については、香月院深励が提唱。論拠は、覚如がまとめたとされる『口伝抄』などの書物に、親鸞より如信に口伝が行われ、更に覚如がそれを授けられたとあることによる。

 

唯円説については、主に妙音院了祥が提唱。論拠は、唯円の名が作中に出て会話の表現があることや、本文の記述からして親鸞在世中の弟子であること、東国門徒(関東の浄土真宗信者)であることなどによる。

 

本願寺関係者説については、口伝鈔、改邪鈔、歎異抄の三書を比較し書承関係を考察した場合、歎異抄を元に口伝鈔や改邪鈔が成立したと考えると、それぞれの文脈も考慮した上で、複雑かつ不自然な経路を考えざるを得ないこと、翻って歎異抄が前二書を素材として最も後に撰述されたと考えると、自然な経路が想定できることによる。

 

沿革

成立の背景

親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)は多様に解釈され、さまざまな「異義」とされるものが生じた。作者は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたと述べている。

 

編集された時期は、作者を唯円とする説では親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられている。

 

再発見

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本書は、作者を唯円とした場合、成立から約200年の間ほとんど知られることがなかった。そして室町時代に蓮如が書写し広まった。(今日、蓮如本が最古の写本である。)

記録に出るのは、蓮如の実子である実悟の『聖教目録聞書』に「歎異抄一巻」とあるのが初出である。

 

江戸時代初期に東本願寺の学僧、圓智が『歎異抄私記』を著し、その後、香月院深励や妙音院了祥などの学僧によって研究が進められ、深励の『歎異鈔講林記』・了祥の『歎異鈔聞記』などの注釈書が書かれた。近世以前に確認できる写本が16本あり、その他の諸文献に記載されているものを合わせると28本あったとされる。また、江戸時代には板本5種が刊行された。その後、明治時代になり清澤満之らによって再度評価され、近代の宗教学研究の手法で研究され世間に周知されるようになった。

 

構成

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この短い書は、以下のような構成からなる。

 

真名序

    第一条から第十条まで - 親鸞の言葉

    別序 - 第十一条以降の序文

    第十一条から第十八条まで - 作者の異義批判

    後序

    流罪にまつわる記録

十条において、親鸞の言葉は作者による歎異の論拠へと進化している。

 

真名序

真名序は、この文が書かれることになった目的・由来が書かれている。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎」くのである。

 

そもそも関東の教団は善鸞の事件もあり、異義が発生しやすい土壌であった。親鸞の入滅により、ますますその動きが加速した。主な異義としては以下があった。

 

    どんな悪を犯しても助ける弥陀の本願だからと、少しも悪を恐れない者では往生できないとする異義。

    経典を学ばない者では弥陀の浄土へ往生できないとする異義。

そこで、親鸞が作者に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが本書であるとする。また、この「先師ノ口傳」の「先師」を親鸞ではなく、法然と捉える説もある。

2025/12/16

菅原道真(1)

菅原 道真(すがわら の みちざね、承和12625日〈84581日〉- 延喜3225日〈903326日〉)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

 

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後は怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられた。しかし、後に天満天神として信仰の対象となり、今日に至るまで学問の神様として親しまれている。

 

小倉百人一首では、菅家。

 

生涯

道真は是善とその夫人・伴氏の3男として生まれ、幼名が「阿呼」(あこ)とされる。幼少期について信用できる史料はほとんどない。兄二人の記録はなく、道真も兄弟はいないとしていることから夭折したものと考えられてきたが、詩中に一人子の表現があり一人子説が支持されている。

 

道真は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ。『菅家御伝記』によれば、道真の師は文章生田口達音であったとされる。貞観4年(862年)、18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には、文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)、官吏登用試験『対策』の方略策に「中上」の成績で合格し、位階を進め正六位上となった。

 

玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。当時の朝廷の第一人者藤原基経も道真の文才を評価した一人であり、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真に依頼している。元慶元年(877年)、式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)の父・是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

 

仁和2年(886年)、讃岐守(讃岐国司)を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向することとなった。道真は、この任が「左遷である」と言われていることが残念であると述べており、度々悲しみの意を表している。送別の宴で、道真は摂政藤原基経から詩をともに唱和するよう求められたが、落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという。

 

仁和3年末には一時帰京し、翌仁和4年(888年)正月には任地に戻った。この年の4月、阿衡事件が発生し、基経が職務を妨害する事態となった。道真は10月頃再び入京し、基経に事件の発端となった橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めたとされる。この書が出されたとされる11月には、すでに橘広相は赦免されており、基経の態度に影響を与えるものではなかったが、儒者による橘広相への非難を緩和する効果があった可能性も指摘されている。

 

宇多天皇の近臣

寛平2年(890年)、任地より帰京した。道真は本来ならば任地で行う引き継ぎを行わず京都に戻っている。この年、阿衡事件の後も厚い信任を受けていた橘広相が病没し、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢した。寛平3年(891年)229日、道真は蔵人頭に補任された。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、紀伝道の家系で蔵人頭となったのは、道真以前は橘広相のみであった。道真は蔵人頭を辞任したいと願い出ているが、許されなかった。

 

さらに39日には式部少輔、411日に左中弁を兼務。翌寛平4年(892年)従四位下に叙せられ、125日には左京大夫となっている。寛平5年(893年)216日には、参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、222日には左大弁を兼務した。42日には敦仁親王が皇太子となったが、宇多天皇が相談した相手は道真一人であったという。立太子に伴い、道真は春宮亮を兼ねている。

 

寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している。ただし、この建議は結局検討されず、道真は遣唐大使の職にありつづけた。しかし内外の情勢により、遣使が行われることはなかった。延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。

 

寛平7年(895年)、参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任。また寛平8年(896年)、長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平10年(898年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、宇多との結びつきがより強化されることとなった。

 

右大臣

宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。

 

醍醐天皇の治世でも宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、宇多の側近としての立場も保ち続けた。

 

昌泰2年(899年)、右大臣に昇進して時平と道真が左右大臣として肩を並べた。道真は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申していたが、悉く却下された。逆に、宇多上皇から道真のみに政務を委任したい旨の打診を受けるが、道真はこれを拒絶している。翌昌泰3年(900年)には右近衛大将の辞意を示したが、これも却下された。

 

一方で、文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭す文章を送っている。821日には祖父以来の文章・詩をまとめた家集を醍醐天皇に献上し、「尽く金」と激賞された。

2025/12/13

親鸞以前の悪人正機説

この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が、元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている。)

 

四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。

元暁『遊心安楽道』

 

また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えであるとしている。

 

本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。(中略)しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。

 

覚如『口伝鈔』

このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。

 

法然も『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は、悪を慎み善を努めることを勧めたのである。

 

源智が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎 口伝有之」と、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木文美士は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。

 

『法然上人伝記』・醍醐寺本は、大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・源智が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある。

 

一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之> 私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。 然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。 悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。

『法然上人伝記』 三心料簡および御法語

 

本願ぼこり

悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。

 

ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。

2025/12/08

遣唐使(4)

遣唐使の消滅

寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。821日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。

 

道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は、以下のとおりである。

 

中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく既に日本と唐の交流は停止している。

過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしていたが、唐に渡ってからは危険が及んだ例はない。しかし、唐が衰えている現状では、唐に渡ってからも危うい。

中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。

 

『日本紀略』には、道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた。しかし1990年、石井正敏が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した。この結論は、研究者によって概ね支持されている。道真ら遣唐使予定者は、これ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)513日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)1028日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には、宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。

 

しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

 

遣唐使停止後の日本の外交・貿易

遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と、唐や宋などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から、次回の安置まで10余年の間隔を空ける)を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅では、この規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」も、この仕組を維持するための政策であったと言える。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある。

 

しかし、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など、中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では、唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかったため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った。

 

とは言え、摂関期・院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる。

 

また、日本では遣唐使停止以後に、独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても、様々な指摘がされている。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国大陸から輸入した色糸が必要不可欠であった。

 

復元遣唐使船

遣唐使船は、これまでに数隻が復元されている。

1984年公開の映画「空海」では、海上撮影のために航行可能な遣唐使船が建造された。

長門の造船歴史館(広島県呉市)において、1989年(平成元年)に復元した遣唐使船が展示されている。

 

2010年(平成22年)の上海国際博覧会に際しては、ジャパンデーに合わせて財団法人の角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:森ビル、読売新聞社、経済産業省、文化庁など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tでエンジン付き遣唐使船(名誉船長:夢枕獏)が復元され、かつての遣唐使と同一の航路で大阪港から上海に入港した。出港式では、住吉大社の安全祈願と歌手の坂本真綾によるプロジェクトのテーマソング『美しい人』(作曲・編曲:菅野よう子)の披露が行われた。プロジェクトの親善大使を務める俳優の渡辺謙を乗せて会場内を流れる黄浦江を航行している。

 

2010年(平成22年)の平城遷都1300年祭に際しても、同年開館の平城京歴史館と合わせて全長約30m、全幅9.6m、排水量300tの遣唐使船が復元された。2016年(平成28年)に平城京歴史館は閉館し遣唐使船の公開も中止されていたが、2018年(平成30年)の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに、遣唐使船も改めて公開されている。

2025/12/06

悪人正機 ~ 親鸞(7)

悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で

「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」

という意味である。

 

阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。

 

悪人と善人

「悪人正機」の意味を知る上で「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。

 

法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。

 

悪人

衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

 

善人

親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。

 

ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。

 

因果

凡夫は「因」がもたらされ、「縁」によっては思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もあるし、なおかつ悪と思い行った事(因)が、縁によっては悪をもたらす事(悪果)もあれば、善をもたらす事(善果)もある。つまり、親鸞の他力本願の教えに基づいて、悪因悪果や善因善果以外にも、善因悪果もあれば、悪因善果もあるのである。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。

 

救済の対象

『仏説無量寿経』には、すべての人が苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに

「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」(意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が私を憑み(一切任せ)わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)と説かれている。

 

「十方衆生」、すなわちすべての衆生が救済の対象である。また至心・信楽・欲生は、如来の願によるものである。よって自らの計らいによる善悪は、阿弥陀による救済の条件・手段にはならない。

 

「唯除五逆誹謗正法」(「唯除の文」)についての親鸞の了解は、曇鸞の『浄土論註』、善導の『観無量寿経疏』に依るものである。

 

我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。

自分のやった善行によって往生しようと思うのは、阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。

何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。

善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、本質的な善悪の判断基準がない。

すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、「悪人正機」の本質である。

 

しかしこの事は「欲望のままに、悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。

さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは「親鸞一人のためであった」と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。 この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。

 

以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。

 

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

 

この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

 

そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

『歎異抄』第3

2025/12/02

遣唐使(3)

遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。古代の網代帆は、竹や葦を薄く削った物や、棕櫚(しゅろ)や笹の葉を平らに編んで作った網代を籠目(かごめ)に編んだ竹に縛って繋ぎ合わせた帆で、開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく、優れた帆走性を持っている。船体は耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。

 

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に、佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し、乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。

 

東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには、12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。外交の条件に拘束されない遣渤海使では、気象の良好な時節を活用して、成功率の高い航海がなされている。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする。

 

遣唐使の行程

羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で、近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から、長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。

 

長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と、内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や、唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には、関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば、大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。

 

また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した(ただし、これについては反論もある)。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要から、その原則が破られることは珍しくはなかった。

 

最後に遣唐使は、皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。

 

なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため、判官孫興進が大使の代行を務めた)が、これに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には、遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)。

 

遣唐使の選考基準

『伊吉博徳書』『懐風藻』『続日本後紀』『文徳実録』などの諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘がある。

 

遣唐使の衰退

遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では、874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

 

既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。

 

当時の日本の対唐観の変化として「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。