2025/12/30

歎異抄(3)

第九条は

「念仏を称えても、経文にあるような躍り上がるような喜びの心が起こらず、少しでも早く極楽浄土に行きたいという気持ちにならないのは何故でしょうか」

という唯円の疑問に対しての問答を長文で記している。

 

親鸞は

「この親鸞も同じ疑問を持っていたが、唯円も同じ気持ちだったのだな。」

と答えている。

 

そして

「よく考えてみると躍り上がるほど喜ぶべきことを喜べないからこそ、ますます極楽往生は間違いないと思える。」

としている。

 

その理由を

「喜ぶべきことを喜べないのは煩悩の仕業であり、阿弥陀仏はそんな煩悩で一杯の衆生を救うために本願を建てられた。こんな我々のための本願であると知らされると、ますます頼もしく思える。」

と答えている。

 

次に、早く極楽に行きたくないどころか、少しでも病気になると「死んでしまうのでは」と不安になるのも煩悩の仕業とし

「長い間、輪廻を繰り返して滞在してきたこの苦悩に満ちた世界だが、それでも故郷のような愛着があり、行ったことがない極楽には早く行きたい気持ちも起こらない。これらも煩悩が盛んだからである。」

 

「阿弥陀仏は、早く極楽往生したくないという我々を特に哀れに思っておられる。だからこそ阿弥陀仏の願いは益々頼もしく、極楽往生は間違いないと思われる。もし躍り上がるような喜びの心が起こり、極楽浄土に早く行きたいという気持が起こるなら、自分には煩悩がないのかと疑問に思ってしまうだろう」

と説いている。

 

第十条は、他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできない、一切の人智の計らいを超越したものである、と説かれている。

 

別序

親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあるとする。

 

第十一条 - 第十八条

第十一条以降は、異義を11つ採り上げ、それについて逐一異義である理由を述べている。

 

経典を読まず学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視するものだと論じている。また、どんな悪人でも助ける本願だからといってわざと好んで悪を作ることは、解毒剤があるからと好んで毒を食するようなもので邪執だと破った上で、悪は往生の障りではないことが説かれている。

 

後序

後序は、それまでの文章とは間を置いて執筆されている。

 

親鸞が法然から直接教え受けていた頃

「善信(親鸞)が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)

と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えた。

 

それに対し法然は

「源空(法然)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えた。

 

作者は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き本書を記したと述べている。

 

流罪にまつわる記録

承元の法難に関する記録が述べられている。親鸞が「愚禿親鸞」と署名するようになった謂れが書かれている。

 

写本

重要な写本としては、蓮如本、端坊旧蔵永正本などがあり、蓮如本が最古のものである。2015年現在、原本は発見されていない。

 

蓮如本と永正本とには、助詞などの違いが見られるが、全体の内容として大きな違いは無い。最も原型的な古写本と考えられる蓮如本・永正本はともに「附録」と「蓮如の跋文」を備えているが、後代のものには、これらを欠く写本も存在する。

 

上述のごとく、蓮如本と永正本には、蓮如の署名と次のような奥書が付されている。

 

右斯聖教者為当流大事聖教也 (右、かくの聖教は、当流大事の聖教と為すなり)

於無宿善機無左右不可許之者也 (宿善の機無きにおいては、左右無く之を許すべからざるものなり)

 

釈蓮如 御判

 

すなわち、本書は「当流大事の聖教」ではあるけれど、「宿善の機無き」者(仏縁の浅い、仏法をよく理解していない人達)にはいたずらに見せるべきではない、と蓮如は記している。しかし、これは禁書や秘書の類といった意味ではなく、蓮如が著した『御文』(『御文章』)においては、『歎異抄』の内容の引用が随所に見られる。

 

親鸞思想との相違点

歎異抄は書名が示すように、当時の真宗門徒たちの間で広がっていた様々な異説を正し、師である親鸞の教えを忠実に伝えようという意図の下で著されたものである。しかしながら、親鸞の著作から知られる思想と、歎異抄のそれとの相違を指摘する学者も多い。たとえば仏教学者の末木文美士は、歎異抄作者の思想はある種の造悪無碍の立場を取っているとし、これは親鸞の立場とは異なるとする。

 

また、遠藤美保子は

「悪を行うことは避けられないことであり、そのような悪人だからこそ救われる」

という論理によって自己を肯定する歎異抄の思想は、親鸞とは異なっているとする。さらに遠藤は歎異抄の「本願ぼこり」という邪義について、本書にしか見いだされず、そもそも本当に存在した邪義かどうかについても疑問を呈している。

 

作者は歎異抄において、阿弥陀仏の本願を盾に悪行をおこなう者に対して、忠告は行なっているが彼らの往生は否定せず、かれらも確実に浄土に往生できるとする。しかしながら、親鸞は書簡にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べている。

 

本願寺関係者撰述説

塩谷菊美は、本願寺関係者が覚如の『口伝鈔』や『改邪鈔』などをもとに歎異抄を編纂したという説をとなえ、本書が「親鸞研究の一級史料」として用いられていることに異論を述べている。

 

塩谷は、本書が『口伝鈔』や『改邪鈔』を素材とし、これらの資料の背景にあった聖教の「悔い返し」などの文脈が無視されて使われていることを文献間の比較によって指摘した。これによって塩谷は、いずれかの本願寺関係者が

「親鸞の元に常時付き従っていた如信による口伝の書(『口伝鈔』)があるならば、弁舌巧みで知られた唯円による親鸞口伝の書もあるはずだ」

と考えて撰述したとする仮説を提示している。

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