第一条 - 第十条
第一条から第十条は、親鸞が直接作者に語ったとされる言葉が書かれている。
第一条では、「阿弥陀仏のすべての人々を救うという本願により、浄土に生まれさせて貰うために念仏をしようと思いたった時から、阿弥陀仏の絶対に見捨てないとの利益に預かることができる。阿弥陀仏の本願は老少・善悪の人は関係なく、ただ信心(阿弥陀仏の本願に対し微塵の疑いもなくなった心)が要であると考えるべきである。なぜならば(阿弥陀仏の本願は)罪深く、煩悩が盛んな人々を助けるためのものだからである。本願を信じる者には、念仏以外の善は不要である。念仏に勝る善などないからである。また、どんな悪も恐れることはない。阿弥陀仏の本願を妨げる悪などないからである。」と説かれている。
第二条は、善鸞などの異説について、関東から上洛して親鸞に直接尋ねに来た同行・僧侶達への親鸞の回答を長文で記している。明確な答えを期待していたであろう彼らに対し、親鸞は
「はるばる関東から命がけで京都にまでやってきたのは明確な回答がほしいからだろうが、それは間違いである。答えは奈良や比叡山にまします立派な学僧たちに聞いたらいいだろう。この親鸞がやっていることは『(罪悪深重の我々衆生が助かる道は)、ただ念仏して弥陀の本願に救い取られる以外にない』という法然上人の教えに従って念仏している以外に何もない。たとえ法然上人にだまされていて、念仏をして地獄に落ちたとしても何の後悔もない。
もし、私がそれまでの念仏以外の修行を続けていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もあろうが、どんな修行も中途半端にしかできない私は、どのみち地獄が定められた住み家だからである。もし弥陀の本願は真実ならば、それ一つを教えている釈尊の説法も、善導の解釈も、法然の言葉も嘘であるはずがない。だから、そのことをそのまま伝えているこの親鸞の言うことも、そらごととは言えないのではなかろうか - 愚かな私の信心は、このようなものである。この上は念仏を信じるも捨てるも、各々の勝手である」
と、一見突き放すように答えている。
この親鸞の回答は「念仏称えたら地獄か極楽か、私は全く知らない」と文字通り言っているのではなく、同様に「弥陀の本願まことにおわしまさば…」という一節も「もし本願がまことであるとするならば」という仮定ではなく「弥陀の本願よりも確かなものは、この世にない」という親鸞の信心を言い表したものであると言う説がある。
第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
は、現在でもよく引用されている。
「善人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや悪人が往生できないわけがない。しかし世間の人は『悪人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや善人が往生できないわけがない』では? と常に言う。これは一応道理に聞こえるが、他力本願のおこころに背いている。」
と説いている。
「自力で善を成そうとする人は、阿弥陀仏を信じてお任せしようとする心(他力を頼む心)が欠けているから阿弥陀仏の本願の主対象ではなくなっている。でもそんな心を改めて、心から他力を頼めば本当の浄土に生まれることができる。」
としている。
「煩悩まみれの我々は、どんな修行をしたところで迷いの世界から抜け出ることはできない。そんな我々を哀れんで起こされた阿弥陀仏の本願の主目的は、悪人が成仏できるようにするためであるから、阿弥陀仏を信じてすべてをお任せできる悪人こそ、最も往生できる人である。」と説いている。
ここで言う「善人」「悪人」などの詳細は、悪人正機を参照のこと。
第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれている。聖道仏教の慈悲とは人間の頭で考える慈悲であり、それでいくら人々を救おうとしても限界がある。だから生きているうちに早く他力の信心を得て浄土に行って仏となり、仏の力によって人々を弥陀の浄土へと導くことこそが真の慈悲=浄土の慈悲である、と説かれている。
第五条では、「親鸞は一度も父母のために念仏したことがない」として、追善供養を否定している。念仏は自分の善ではないからである。そんな形ばかりの追善供養をするより、生きているうちに早く他力の信心を得なさい。そうすれば浄土で仏となって自由自在に多くの縁者の救済ができるようになるのだから、と説いている。
第六条では、この親鸞には弟子など一人もいない。表面上は親鸞の下で仏法を聞き念仏を称えるようになったように見えるかもしれないが、これも本当は全く弥陀のお力によるものである。だから「この人達は俺の裁量で仏法聞くようになったのだ」などと考えるのは極めて極めて傲慢不遜であり、決してあってはならぬことだ。だから人と人との複雑な因縁に拠って、別の師の下で聞法し念仏を称えるようになった人は、浄土へは行けないなどとは決して言うべきではない、と説かれている。
第七条では、ひとたび他力の信心を得た者=念仏者にとっては、悪魔・外道、図らずも造ってしまう悪業など、如何なるものも極楽往生の妨げにはならないと説かれている。
第八条では、他力の信心を得た者の称える念仏は自力(自分の計らい)で行うものではないので、行でも善でもないと説かれている。
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