2025/12/22

菅原道真(2)

左遷と死

昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、125日に大宰員外帥に左遷された。宇多上皇は、これを聞き醍醐天皇に面会しとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、また道真の弟子であった蔵人頭藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった。また、長男の高視を始め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降、現在でもこの見解が一般的である。

 

道真と時平の関係は険悪、あるいは対立的であったと捉えられることが多いが、実際は道真の家と時平の家は、それぞれの父親の代から関わりが深く、度々詩や贈り物を交わす関係であった。ただし、贈答詩については、道真から発したものはなく時平への返答のみである。昌泰2年(899年)には、時平が父基経の事業を受け継いで建設した極楽寺(現在の宝塔寺の前身)を定額寺とするための願い状の代筆を道真に依頼するなど、時平は文章家としての道真を高く評価していた。道真の失脚は単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層の同意があった。

 

また『扶桑略記』延喜元年七月一日条に引く『醍醐天皇日記』は、藤原清貫が左遷後の道真から聞いた言葉として

「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった。又仁和寺(宇多上皇)の御事に、数(しばしば)承和の故事(承和の変)を奉じるのだということが有った」

と記載している。

 

これにより、廃立計画自体は存在したという見解もある。ただし、藤原清貫の報告について『菅家後集』で清貫が道真と面会した形跡がないことから、実際にあった出来事なのか疑問も指摘されている。また、廃立計画の背景として、時平の妹である穏子の入内を望む醍醐天皇に対して、阿衡事件の経緯から基経の娘(時平の姉妹)の入内を拒んできた宇多上皇が反発したとする指摘がある。

 

太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)225日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。

 

死後の復権

延喜6年(906年)冬、道真の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している。延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる。延喜13年(913年)には、右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。

 

延喜23年には、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。『日本紀略』は、これを道真の恨みがなしたものだとしている。420日(923513日)、道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られた。

 

延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった。

 

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)628日には贈正一位左大臣、同年閏1020日には太政大臣が贈られた。

 

家系

父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公と父は、ともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している。

 

正室は島田忠臣の娘、島田宣来子。忠臣は父も不明であるという家系の出身であったが、紀伝道においては道真の師であり、度々道真と詩や手紙を交わしあう関係であった。子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた、学者の家として長く続いた。高視の曾孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。

 

特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)を輩出した。明治時代になり5つの堂上家は華族に列し、当主はいずれも子爵に叙せられている。また高辻家からは西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として現代に至る。

 

事績・作品

百人一首 菅家(菅原道真)

このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに

著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、『寛平御時后宮歌合』や『是貞親王歌合歌』などの和歌と、それを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、原撰本(上下巻)を道真、増補本(下巻に補填を加えたもの)を源当時ではないかという指摘がある。

 

私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。

 

六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり、編纂者から名は外されている。

 

祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は、清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

 

和歌

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に(古今和歌集 羇旅歌。この歌は小倉百人一首にも含まれている)

 

海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ(新古今和歌集 雑歌下。大宰府へ左遷の途上備前国児島郡八浜で詠まれた歌で硯井天満宮が創建された。「海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」)

 

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)

 

水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん(後撰和歌集巻十九)〈今昔秀歌百撰23選者:松本徹〉

 

君が住む 宿のこずゑの ゆくゆくと 隠るるまでに かへりみしはや(『拾遺和歌集』巻六。歌集のもととなった『拾遺抄』の詞書には、「流され侍はべて後、妻のもとに言ひをこせて侍ける」と相手を明記。)

 

漢詩

月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨(月は雪の如く輝き 梅花は星の照るに似る 憐れむべし金鏡転じ 庭上に玉房馨れるを)十一歳の道真が詠んで、周囲の大人たちを感嘆させたという漢詩。

 

駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長驚くことなかれ 時の変わり改まるを 一栄一落 これ春秋。大宰府へ左遷の途上に立ち寄った播磨国明石駅家の駅長の同情に対して答えたもの。)

 

去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香(去年の今夜清涼に待し、秋思の詩篇独り斷腸。恩賜の御衣今此こに在り、捧持して毎日余香を拝す。九月十日 太宰府での詠。)

 

彫刻

木造十一面観音立像 - 平安時代初期9世紀 -カヤ材の一木造で、彩色を施さない素地仕上げ。カヤ材をビャクダンの代用材として用いた檀像様(だんぞうよう)の作品。像高98cm。道明寺蔵の国宝

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