2025/12/21

歎異抄(1)

『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。『歎異鈔』とも。

 

作者について

作者については、現在では唯円とするのが一般的だが、他説として如信説・覚如説がある。また、近年では覚如以後の本願寺関係者が作者であるとする説もある。

 

如信説については、香月院深励が提唱。論拠は、覚如がまとめたとされる『口伝抄』などの書物に、親鸞より如信に口伝が行われ、更に覚如がそれを授けられたとあることによる。

 

唯円説については、主に妙音院了祥が提唱。論拠は、唯円の名が作中に出て会話の表現があることや、本文の記述からして親鸞在世中の弟子であること、東国門徒(関東の浄土真宗信者)であることなどによる。

 

本願寺関係者説については、口伝鈔、改邪鈔、歎異抄の三書を比較し書承関係を考察した場合、歎異抄を元に口伝鈔や改邪鈔が成立したと考えると、それぞれの文脈も考慮した上で、複雑かつ不自然な経路を考えざるを得ないこと、翻って歎異抄が前二書を素材として最も後に撰述されたと考えると、自然な経路が想定できることによる。

 

沿革

成立の背景

親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)は多様に解釈され、さまざまな「異義」とされるものが生じた。作者は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたと述べている。

 

編集された時期は、作者を唯円とする説では親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられている。

 

再発見

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本書は、作者を唯円とした場合、成立から約200年の間ほとんど知られることがなかった。そして室町時代に蓮如が書写し広まった。(今日、蓮如本が最古の写本である。)

記録に出るのは、蓮如の実子である実悟の『聖教目録聞書』に「歎異抄一巻」とあるのが初出である。

 

江戸時代初期に東本願寺の学僧、圓智が『歎異抄私記』を著し、その後、香月院深励や妙音院了祥などの学僧によって研究が進められ、深励の『歎異鈔講林記』・了祥の『歎異鈔聞記』などの注釈書が書かれた。近世以前に確認できる写本が16本あり、その他の諸文献に記載されているものを合わせると28本あったとされる。また、江戸時代には板本5種が刊行された。その後、明治時代になり清澤満之らによって再度評価され、近代の宗教学研究の手法で研究され世間に周知されるようになった。

 

構成

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この短い書は、以下のような構成からなる。

 

真名序

    第一条から第十条まで - 親鸞の言葉

    別序 - 第十一条以降の序文

    第十一条から第十八条まで - 作者の異義批判

    後序

    流罪にまつわる記録

十条において、親鸞の言葉は作者による歎異の論拠へと進化している。

 

真名序

真名序は、この文が書かれることになった目的・由来が書かれている。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎」くのである。

 

そもそも関東の教団は善鸞の事件もあり、異義が発生しやすい土壌であった。親鸞の入滅により、ますますその動きが加速した。主な異義としては以下があった。

 

    どんな悪を犯しても助ける弥陀の本願だからと、少しも悪を恐れない者では往生できないとする異義。

    経典を学ばない者では弥陀の浄土へ往生できないとする異義。

そこで、親鸞が作者に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが本書であるとする。また、この「先師ノ口傳」の「先師」を親鸞ではなく、法然と捉える説もある。

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