讃岐
道真は、詩臣として中央で天皇のそばにお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていた。その為、自分が地方官として讃岐に赴任することに葛藤していた。赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑い、また、道真は家族愛が人一倍強かったので、家族のそばにいれない寂しさも綴っている。
しかし、元来の生真面目で清廉な性格から、白居易の兼済(広く人民を救済)という志を信条とし、自ら酒を醸して酒宴を催し村人と親交を深めたり、『寒早十首』『冬夜九詠』などで民の悲惨な実情を見分するなど、善政を執り行うよう努めた。
のちに、清廉と謹慎を心がけた政治をしたが、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できなかったことを悔いている。
左遷
『政事要略』巻二十二によれば、大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。
『菅家後集』「叙意一百韻」には、左遷道中の様子として反道真派の奸計により絶えず危険にみまわれ、落し穴などの罠や誅伐として行く手に潜伏していた刺客に襲われたこと、傷ついた駄馬や損壊した船を与えられたことなど、執拗な嫌がらせをうけていたことが綴られている。
大宰府
讃岐時代と同様に、北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており「粛清することはもはや不可能」と評する程の治安の悪さを綴っている。
また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。
『菅家後集』「讀家書」では、久しぶりに妻から手紙がきたことを書いている。道真は、妻が薬(生姜と昆布)を送るなど自分を労わる気持ちは嬉しいが、家族の生活が苦しいことをひた隠しにしていることが、かえって自分を悲しめ心配させているのだと綴っている。
また、「詠樂天北窓三友詩」によれば、詩友として≪死≫という真の友だけが残ったとし、謫居の北の窓の部屋に時たま現れる雀と燕の親子を良友とし、彼ら雌雄が相互支えあい雛を養育し飢えさせることのない慈しみある行動は、家族を離散させてしまった私では遠く及ばないとし、その口惜しさを言葉にすることもできず、血の涙を流しながらただ天神地祇に祈るのみ。そして、昔の友は喜び今の友は悲しみとし、それぞれ異なる友だが、それはそれで同一のものなのかもしれない、と結ぶ。
伝説
出生
喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生天満宮(堺市美原区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
道真の生誕地については諸説ある。各地に伝わる『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より、忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿)なる5・6歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないので、そなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという。
長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。
菅原天満宮によれば、是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。
滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。あらすじは、あるとき漁師の桐畑太夫のところへ美しい天女が舞い降りる。太夫は羽衣を隠し、無理矢理その天女と夫婦になる。そして、玉のような男の子が産まれ陰陽丸と名づけられる。しかし、天女が羽衣を見つけ天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり、憐れに思い引き取り養育することにした。その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさい、その子供を養子にする。この子供こそ、のちの菅原道真だという。
また、別説では、桐畑太夫と天女のあいだに産まれた陰陽丸、菊石姫の兄妹としている。
江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。
『野馬台詩(歌行詩)』の主釈によれば、菅原道真と吉備真備は兄弟で、兄が道真、弟が真備だという。
道真は丑年丑の日丑の刻生まれだったという伝承がある。
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