2025/12/25

菅原道真(3)

人物

人柄

詩作にも官能的で優美な表現を取り入れており、宮廷詩では美人舞妓の踊り乱れた姿や、髪・肌・汗・香・化粧・衣などの様子を詩で仔細に鮮やかに表現している。ただし、常に浮かれていたわけではなく、特に盛り上がっている宴会のみで、普段の宴会では謹厳な態度を守り、自分の言行を抑える、というように二つの顔を使い分けていたという。

 

子煩悩で子供に関しての詩を多く残しており、菅家文草「夢阿満」では、“阿満”という一番可愛がっていた子が亡くなると、神仏を恨み世界から天地がなくなった、と嘆くほど悲しんでいる。しかし、最後に幼い阿満が三千世界に転生するときに迷わぬよう、観自在菩薩に祈っている。

 

根っからの詩人で、詩が思い浮かぶとすぐさまその場で口ずさみながら、周りの物に書き付けるほどだった。

 

自身の人生について、昔の栄達していたときは、世俗の煩わしさに縛られ窮屈だったが、今は罪を問われて左遷され、荒廃したあばら屋に閉じ込められた不自由な暮らし、と大宰府で述懐している。

 

どんな大量の黄金も、父祖から代々伝わった学識には遠く及ばない、としている。

「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と評するほど、越州国の風景を気に入っていたという。

 

家族や気の置けない友人達との語らい、馬で自然を駆け巡ることなどを好んだが、大量の行政文書をかたづけるなど仕事に忙殺されることだけは嫌っていた。

 

梅の花を好んだことで有名だが、桜花の美しさを

「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称え、菊の花も若い頃から栽培するほど好み、薔薇の美しさを、妖艶で人を虜にして惑わす妖魔と例えている。

 

これに、雪と月を加えた「雪月花」を好んだとされ、雪は女性の化粧や老人の白髪の表現に、月は美しさはさることながら、正邪を照らしだす真澄鏡に例えたり、擬人化し「問秋月」「代月答」のように自己問答の形式で漢詩がつくられ、月光を誰も知らない自身の心の奥底にある清廉潔白さを照らし出す光として題材にされた。

 

思想

『菅家文草』によると、道真は願文作成により、儒教的言説に基づいて世界の差異(身分差別、男女差別など)を構造化し、仏教的基本原理(輪廻・化身・垂迹等々)とアナロジー(類推)を用いることで、隣接する概念間の差異を次々と消去し、「万物の均質化」と「存在の連鎖」を生み出した。

 

未だかつて邪は正に勝たず(邪まなことはどんなことがあっても、結局正義には勝てないのである)。

 

全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない。

 

紀長谷雄にたいし、世間では偉そうにべらべら喋る大学者さまが我が物顔で通るたびに有難がられているが、君が口を閉ざしても君の詩興が衰えることはないから心配するな、と励ましの詩をおくっている。

 

香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず(香りは、わざわざ火を用いて焚くものではなく、清らかな心の中に薫るもの。同じように、花は春が来るからつぼみが開くのではなく、正しい心で合掌するその手の中に花は咲くもの)。

 

「閑思共有雕蟲業、應化使君昔詠詩」篆刻道が神仏に通ずることを示す。

 

交流

師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣が死去した際に道真は「今後、再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという。

 

紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされる。道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったとされ、道真の妻を逃がしたという伝承もある。また、『扶桑略記』によれば、百人一首の舞台として有名な宇多天皇御一行遊覧の際に、長谷雄を求めて叫んだほど長谷雄への信頼があった、と同時に宇多天皇厚遇の時期であっても道真が孤独だったことがわかる。

 

在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。

 

天台宗の僧相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したという。道真薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという。

清廉剛直な武官の藤原滋実とも親交があった。滋実は、元慶の乱の鎮圧に参加し俘囚に配給して懐柔し、反乱した夷俘を討たせる役を命じられ見事成し遂げる。のちに陸奥国司となる。死因についてははっきりせず、部下に不正を行っていた輩が多く、呪詛され殺されたのではないか、という噂がなされたため道真は五男菅原淳茂に調査を命じている。滋実が逝去したさい、誄歌「哭奥州藤使君」をおくっている。

 

かつて道真は滋実より

「私は、あなたさまよりひそかに恩恵をうけています。私は、死のうが生きようが、生死を超えてあなたより受けた、このご恩に報いたいと思っております」

と、熱い想いをつげられたという。それを回顧した道真は、自身の正義の是非について裁いてくれるよう、また、正義をつらぬくための手助けになってくれるよう、滋実の霊に懇願し悲嘆にくれている。ほかに、東国と中央政府の癒着した腐敗政治についても言及している。

 

『十訓抄』などには時平の弟、藤原忠平とは共に宇多天皇主催の歌会に出たり、常に手紙を贈り合うなど親交があり、道真の左遷にも反対したとされる。しかし坂本太郎は道真左遷時の忠平は従四位下にすぎず、時平に反対することなどできなかったと指摘している。これは北野天満宮の支援者であり、忠平の子孫である摂関家による付会ではないかと見られている。

 

渤海使で日本に帰化したとされる王文矩とも親交があったという。

 

道真は、菅家廊下の弟子の中で文室時実を一番可愛がっていた。時実は、若い頃から匏(能無しという意味)と言われる苦学生で、食べることもままならないほど貧しく、そのうえ年老いた母親も抱えていた。道真が讃岐赴任のためいなくなったあとも、独り努力を重ね見事難関の省試に合格し、その報告をしにきた彼にたいし、道真は称賛と若い文章生にいじめられないか心配する詩を綴っている。

 

13世天台座主法性坊尊意に教学を師事したとされる。

 

しかし、『菅家文草』「書斎記」によれば、友人でも親しい者とそうでない者がおり、そうでない者として、さして気が合うわけでもないのに愛想よく寄ってくる者、腹の底が判らない口先だけは変に親しい者、休息と称して無理矢理押し入ってくる者、秘蔵の書や書物を乱暴に扱う者、自分が苦労して書物から抜粋した短冊の知識を理解し勝手に持ち出してしまう者、理解できず破り捨ててしまう者、先客である大切な友人の面会を無視して、特に用もないのに強引に面会にくる者をあげ、自分を本当に理解できる友人は3人ぐらいしかおらず、その3人も失ってしまうのではないかと戦々恐々としている。

 

また、学者や貴族などの恨み妬みが凄まじく、『菅家文草』「思ふ所有り」「詩情怨」では、巷で出回った怪文書の作者として濡れ衣を着せられ誹謗中傷されたこと、「博士難」では道真が文章博士に就任するとき、父是善から味方がいなく孤独になることを助言されており、就任わずか三日目にして、まわりから誹謗中傷する噂がなされたことが書かれている。

 

絵に描いたものが飛び出して実体化するという逸話をもつ、宮廷絵師巨勢金岡とも親交があったとされる。

 

藤原南家出身の藤原菅根は、若い頃は菅家廊下で学んでいた。しかし、道真に投げやりな態度を難詰されたり、宴で歌った歌を全く認められないなどしたため逆恨みし、成人して官僚になっていくにつれ、藤原時平率いる藤原北家へ接近していったとされる。

 

安倍興行、島田良臣、菅野惟肖、巨勢文雄等の学者たちとは、地方官時代に文通で遠く離れたお互いを励ましあうなど、詩友として交流があったという。ただし巨勢文雄については、試験で文雄が称賛し推薦した弟子の三善清行を、試験官だった道真が嘲笑し落第させている。これが、清行との確執の発端とされている。

 

対策及第の試験官だった都良香が後年、評価に不服だった道真の怨念に当たり亡くなったとする伝説がある。

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