「もづめ(物集女)」は、渡来系の「物集連(もづめのむらじ)」が住んだところか
京都府の向日市に「物集女」と書いて「もずめ」と呼ぶ珍しい地名がある。「物集」の2字だけの表示の場合もある。京都市内から亀岡、丹波、福知山、但馬をへて鳥取、島根へと走る国道9号線を利用される方なら誰もが知っている地名だ。ここから登っていく老坂峠(おいのさかとうげ)は、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と謀反の叫びをあげたところである。
はじめて「物集女、物集」という地名を見て「もずめ」と読むことができる人は、まずいないだろう。読めた人は、よほど歴史に詳しい人である。地名研究の書物をひも解きくと、色々な説がある。
・長岡京を建設した時、建設に必要な物資が集められたところだからという説
・渡来系の「物集連(もづめのむらじ)」=「持部(もつべ)」たちが住んだところという説
・この辺りの地形から「平地が行き詰まったところ」を意味する「も・つめ」が転じたという説
などがある。
地名研究者の中には、長岡京を建設するための物資を集めたところから来たという説は、あまりにもできすぎた話だとして却下する人が多いようだ。
「臣・連」「部民」説はどうかというと、京都盆地の西部には太秦をはじめ、渡来人が移り住んだところはたくさんあっていかにもありそうな話なのだが、ここにそうした人たちが住んでいたかどうかについては、史実がはっきりしないということらしい。
「も」は「も・かみ、も・がみ(最上)」と同様、接頭語として使われていたと考えられるため、この辺りの地形地理を考えると京都盆地が西山に行き当たる、ちょうど最も行き詰まったところに当たる。それを意味する「つめ」と、接頭語の「も」がくっついて「も・つめ」となり、それが「も・づめ」に転じ「物集」という字が当てられたのだ、という説にも説得力がある。
河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだことによるとされている。「物集女」はかなり古くから記録に出てくる地名で、9世紀ごろの記録には「物」と「集」の2文字だけで「もず」と発音していた事例も見られる。
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