甲子園の高校野球には清原、松井、松坂など、これまで数々の「超高校級選手」が誕生してきた。そんな中でも「最高の怪物」と言われるのが、作新学院時代の江川である。
高校時代、彼のボールを受けていた捕手は
「毎日捕ってないと、補球すら困難」
と言っていた。また、その捕手はこうも言った。
「江川が一番ボールが速かったのは、高校2年の時である。監督が嫌がる江川の尻を蹴飛ばしながら散々走らせたお蔭で、下半身が安定し物凄いボールだった。しかし3年の時に監督が代わり、それほど口やかましく言わなくなった途端、ランニング量が減りスピードが落ちた」
「怪物」の公式戦デビューブロック準決勝の烏山戦は完全試合。栃木県高校野球では、史上初の快挙だ。それも中学を卒業して、まだ4ヶ月の1年生ピッチャーが達成した。
「江川の投げてくるボールの周りに “グワァー” というオーラがありましたから」
「江川の球は総て、ベルト上からホップするんです。ダイナミックなフォームに、実にいい縦の回転をしているんです。みんな三球三振ばかりです。150kmは出ていたんじゃないですか」
「あんなピッチャー、見たことがない。10年にひとりとか言ってましたけど、そんなレベルじゃない。選手たちは『二階からボールが来る感じです』って言ってました。凄いピッチングでした」
江川、伝説の高2の関東大会、1回戦で前橋工戦に先発した。江川にとって初めての関東大会ということもあり、高校入学以来最高に気合の入ったピッチングを披露する。特に速球が素晴らしく、1回2死から4回まで10連続奪三振。フェアグランドへ打たれたのは、初回トップ山崎のセーフティーバントによる投ゴロだけと、他の高校生とは次元の違う投球内容で前橋工を圧倒した。しかし5回表の打席で、頭部死球を受け退場(そのまま入院)、リリーフ投手が打たれて敗退、優勝候補の一角とも評判だった2年春の甲子園は、出場はならなかった。
1972年、江川2年夏、第54回全国大会栃木県予選。2回戦(対大田原戦)、3回戦(対石橋戦)、準々決勝(対栃木工戦)の登板した3試合総てでノーヒットノーラン(3回戦、対石橋戦は完全試合)を達成。27回無安打46奪三振(1試合平均15.3奪三振)と、驚異的な記録で準決勝に進んだ(対大田原戦では、江川は高校入学以来、公式戦で初めての1試合3安打を記録された)
この年の作新学院は打撃力が非常に弱かったため、江川も勝つためには自分で打って完封するしかない状況であった(準々決勝の栃木工戦も、1対0での勝利。しかも、その1点は9回裏江川自らのサヨナラヒットで挙げた点である)。4試合目の準決勝(小山戦)も、10回2死までノーヒットノーランだったが味方打線も点が取れず、この試合も15奪三振の力投を見せるも延長11回裏、サヨナラスクイズの0対1で敗れ甲子園出場はならなかった。勝負の世界に「もしも」はないが、もしも江川がある程度の打撃力のあるチームにいれば、4試合連続ノーヒットノーランで決勝進出という、超人的な投球内容であった。
地方予選敗退にも関わらず、このまさに怪物の名にふさわしい投球内容から、栃木県だけでなく日本全国の高校野球ファンに「栃木県に作新学院の江川あり」と、その名を知られる大会になった。作新学院入学時よりその評価は高く、周囲からの期待も大きかったが、高校1年夏、2年春夏ともに甲子園への出場はなかったため、当時の野球部監督が更迭された。また全国各地で招待試合が組まれ、そこでの登板回数の多さが後に肩を痛める遠因となったとされる。
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