2015/12/18

四国と隱伎之三子嶋『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
讃岐國(さぬぎのくに)。【岐は、古くは濁って読んだ。】和名抄に「佐奴岐」とある。この名の意味は分かっていない。強いて言えば、古語拾遺の神武天皇のことを書いた部分に「又手置帆負命之孫造2矛竿1、其裔今分在2讃岐國1、毎レ年調庸之外貢2八百竿1、是其事等證(またタオキホオイのミコトのマゴ、ホコザオをツクル、そのハツコ、いまワカレてサヌギのクニにあり、としゴトにミツギモノのほかにホコザオやおをタテマツル、コレそのコトどものアカシなり)」と書かれており、臨時祭式に「凡桙木千二百四十四竿、讃岐國十一月以前差2綱丁1進納(十一月以前に綱丁を差して進め納む:綱丁は運搬人)」とあって、これからすると「竿の調(さおのつぎ)の国」ということだろうか。【「のつ」が「ぬ」と縮まり、「お」を省いたわけである。】

飯依比古(いいよりひこ)。隣の阿波の国を大宜都比賣と言うからには「飯(いい)」も、それに関係があるのだろうか。鵜足(うたり)の郡に飯神(いいのかみ)社がある。延喜式に見える。依(より)のことは、玉依毘賣命のところ【伝十七の七十四葉】で述べる。比古は男の美称で、比は前述した。古は子である。

粟國(あわのくに)はつまり阿波の国である。書紀の神代巻にも「粟田(あわた)」、神武の巻の歌にも「阿波布(あわふ)」を詠んでいて【万葉巻三にも(404)「春日之野邊粟種益乎(カスガのノベにアワたねマカシを)」いにしえには、特にたくさん作っていた作物である。たぶん粟がよくできる国の意味だろう。【和名抄に『唐韻に「粟は禾子(かし)である」とあり、和名「阿波(あわ)」』とあるのは、粟(ぞく)の字について言っている。漢の国では、たなつもの(穀類)をすべて粟と呼ぶことがある。しかし皇国に於いては、粟は穀類のうちの一種であって全部をそう呼ぶことはない。「禾子(穀類)」という注を引用しながら「和名あわ」としたのは、順序を誤っている。】

古語拾遺に「求2肥饒地1遣2阿波國1(よきトコロをもとめてアワのクニにつかわし)云々」とあるのは麻を植えるためだったが、肥えた土地であったら粟もよく実るだろう。伯耆國風土記に「相見郡郡家之西北有2粟嶋1、少日子命蒔レ粟、秀實離々(相見郡の郡家の西北に粟嶋があり)、(スクナビコナのミコト、あわをマキたまうに、イトよくみのれり)云々、故云2粟嶋1也」。これも粟が島の名になった例で、参考になる。

大宜都比賣(おおげつひめ)。【「宜」は「げ」の仮名である。「き」と読むのは間違いだ。】この名も粟から来たのだろう。この名の意味は、後に同じ名の神が登場するので、そこで考察する。【この巻の五十三葉】

土左國(とさのくに)。和名抄に「土佐郡土佐郷」があるから、それから出た名だろう。【この土佐郷に土左大神社がある。この神は葛木の一言主神であるが、雄略天皇の御世に、わけあってこの国に移されたことが、続日本紀二十五、また風土記などに出ている。詳しくは、その朝倉の宮の段で言う。この神は「自言離之神(ミコトさくのカミ)葛木之一言主之大神」と名乗ったと言う。これに関係があるとすれば、「とさ」は「ことさく」の縮まった形とも考えられなくはないが、国名はその御世より古いだろう。】

建依別(たけよりわけ)。【旧事紀では速依別としている。】は、特に何か訳がある名前のように思えない。【「依」は前記の飯依別の依と同じだ。】神名帳によると、安藝郡に多氣(たけ)神社がある。この記をはじめ、多くの古い書物に「たけ」という字に「建」を使うのは「健」のにんべんを省いたのである。いにしえは偏を省いて書くことが多かった。後述の「呉公」のところで詳しく言う。書紀は「たけ」をすべて「」と書く。

○四国について国名を挙げた順序は、後世の決まりと違っている。伊予は全体の名前だったから、最初に挙げたのだろうか。それから右回りに順に挙げている。ところで、以下の島々の名の書き方からすると、この四国についても「またの名は何々」とあるべきだが、たぶん一つの島が四つの国に分かれているので(それぞれの国に別名があるので)、それは書かなかったのだろう。筑紫の島の国々も同じ書き方である。



隱伎之三子嶋(おきのみつごのしま)。後の方では「淤岐嶋(おきのしま)」と書いてある。名前の意味は、沖にある島だと言う。【書紀の口决に、「奥である。西北の隅を奥という」とあるのは、似た意味ではあるが、漢籍の説をそのまま書いているので事実とは違う。纂疏の説も同じだ。≪漢籍の方位の説はC国の地形や風土と結びついており、日本列島とは違うということ≫】
三子嶋は、ある人は「この国に島が三つあるからだ」と言った。地図を見ると、この国は四つの島に分かれており、東北にある大きな島を俗に嶋後(どうご)と呼び、その西南の方に天之嶋、向之嶋、知夫(ちぶり)嶋という三つの島がある。この三つを総称して嶋前(どうぜん)と呼ぶ。【嶋後に比べると、どれも小さい。】三つ子というのは、これを指して言うのだろう。

○亦名(またのなは)の下には、「謂」の字が落ちているかも知れない。他は、みなこの字がある、しかし、これはなくても構わない。

天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。「忍(おし)」は 「大(おおし)」が縮まったのである。書紀神代巻の一書に「熊野忍隅命」を、他の一書に「熊野大隅命」と書いてある。これは「忍」と「大」が通う例である。また「凡河内(おおしこうち)」を「大河内」とも書くのは「大」を「おおし」と読む例である。許呂(ころ)の意味は分からない。【前に出た「こおろこおろ」、また「慇懃慇懃(ねもころごろ)」、「許呂臥(ころふす)」などの言葉があるが、特に関係がありそうでもない。書紀に「發2稜威之嘖譲1(イツのコロビをオコす)≪嘖譲、此云2挙廬毘(コロビ)1≫」ともあり、そういう意味だろうか。何事にせよ、猛々しい様子を表す言葉を讃える意味の名に用いるのが、上代の習慣であった。】
大神宮儀式帳に、鴨神社一處、名を「大水上兒石己呂和居命(オオミナカミのコ、イワコロワケのみこと)という」、とあり「許呂別」の例である。

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