神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
口語訳:そこで地上に帰り、もう一度天の御柱を廻った。今度は伊邪那岐命が先に「ああ、いい女だ」と言い、その後で伊邪那美命が「ああ、いい男だわ」と言った。それから交合して、最初に淡路島を生んだ。
次に伊予の二名の島(四国)を生んだ。この島は四つの面があり、それぞれに名前が付いている。伊予の国を愛媛と言い、讃岐の国を飯依比古と言い、阿波の国を大宜都比賣、土佐の国を建依別と言う。
次に隠岐の(三つ子の)島を生んだ。次に筑紫の島(九州)を生んだ。この島も四つの面があり、それぞれに名前がある、筑紫の国を白日別と言い、豊の国を豊日別と言い、肥の国を建日向日豊久士比泥別、熊襲の国を建日別と言う。次に壱岐の島を生んだ。この島は、別名を天一つ柱と言う。
次に対馬を生んだ。この島は別名を天之狹手依比賣と言う。次に佐渡島を生んだ。次に大倭豊秋津嶋(本州)を生んだ。この島は別名を天御虚空豊秋津根別と言う。こうして八つの島を生んだので、(日本のことを)大八洲の国という。
反降(かえりくだり)は、天神の御所から帰って、おのごろ島に下ったのである。この言葉は、倭建命の段にも「還り下りまして」とある。若桜の宮(履中天皇)の段にもある。
○更往迴云々は「サラニかのアメのミハシラをサキのゴトゆきメグリたまいき」と読む。【「如レ先」を書いてあるままに下に読む(行き廻ること先の如し)のは、我が国の言葉でない。漢文である。我が国の言葉と漢文では、語の上下が入れ替わることが多い。注意すべき点である。】
○御合は「みあいまして」と読む。前記の「美斗能麻具波比」のことである。続日本紀十の巻に「伊波乃比賣命皇后止御相坐而(イワノヒメのミコトとミアイまして)」とある。【「みあわせ」と読むのは、古語を知らない誤りである。俗に「見合わす」と言うことがあるが、それは親が子に「お見合い」をさせることであって、自分で会うのではない。】
○淡道之穗之狹別。淡道は南海道の淡路の国のことで、和名抄に「あわじ」、書紀の應神天皇の歌に「阿波ジ(旋の字の疋を尼に置き換えた字)辭摩(あわじしま)」とある。【後代は国となったが、なお淡路島と言い習わしていた。隠岐、佐渡もそうである。】
名の由来は、本州から阿波に渡る途中の島ということである。【「京路(みやこじ)」、「山跡路(やまとじ)」などは普通に言うが、万葉には「筑紫路(つくしじ)」、「土左路(とさじ)」などの語もあり、「山跡路之嶋(ヤマトジのシマ)」とも言うので、「阿波道の嶋」の意味であることは疑いない。また「対馬(つしま)」の名の意味も似ているのを想起せよ。】
ところで、以下に続く島々の名前を考えると、この島の名も「淡路島、またの名は穗之狹別」とありそうなものだが、この島だけは、いにしえからまたの名を続けて言っていたものらしい。「穗之狹」の意味はよく分からない。【だが強いて解釈するなら、初めに生んだ島なので、稲穂も最初に生えたと思われ「穂の早(さ)」を言うのではないだろうか。早(さ)は早蕨(さわらび)、早穂(わさぼ:早稲の穂)などの「さ」である。】別(わけ)は皇子の名前に多い。そのことは日代の宮(景行天皇)の段【伝廿六の四葉】に言う。延喜式に出雲国出雲郡の比古佐和氣(ひこさわけ)神社の名がある。「狭別」の一例である。
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