●ラッキーボーイの場合
毎日見慣れた顔ぶれの中で、密かに「タコ坊」と名づけていた禿のオジサンがいた。
年の頃は30代半ばから後半くらいか、額が禿げ上がった小太りの、まあひとことで言えば風采の上がらないオッサンで、眉間に皺を寄せて不景気そうな表情をしているのが常だった。
もっとも、その時間の電車はいつも満員のぎゅうぎゅう詰めだったから、眉間に皺を寄せて不景気そうな表情をしているのは、必ずしもそのオッサンだけでもなかったが。
勿論、この「タコ坊」が最初から、特に「ラッキーボーイ」の注意を惹いたわけではない。
強いて言えば「タコ坊」が何故かいつも、あの不景気そうな顔をこちら側に向けて立っていたり、またやけにこちらの立っているのに近いところに、さりげなく寄ってくる(?)のが気になっていたくらいで、単純に
「ウぜーな・・・」
という程度のものだったが、なにしろ「ラッキーボーイ」としては、そのような経験はそれこそ掃いて捨てるほどにあったから、当初こそは
(またか・・・)
という程度の認識であった。
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●タコ坊の場合
「ちっ、くそだーけが!
あのクソオヤジめ、文句ばっかり言いやがって。
そんなに、オレのことが憎いのか、あんにゃろー。
あー、あんな不景気なクソ工場なんて、今直ぐにでも辞めちまいたい・・・とはいえ、底辺三流高卒のオレじゃ、工場くらいしか雇ってくれそうもねーしな・・・あー、まったく、おもしろくねー」
この日も、勤務する印刷工場で職長のオヤジに怒鳴られ続け、また「世の不幸を一身に背負ったような」根暗な表情を浮かべていたタコ坊。
電車を待つホームで、タコ坊の目に一人の若い女が目に入った。
「お・・・綺麗なね~ちゃんじゃねーか。
まさに、オレ好み・・・」
まさに、オレ好み・・・」
とはいえ、かつて電車の中で「痴漢と間違われた」前科があるだけに、あまり近付かないように気を付けねばならん。
こうして、毎日職長のオヤジにどやし付けられる恨みを蓄積しているオレにとって、帰りの電車で見かける彼女は何一つ面白いことのない日常における、たったひとつの「希望の灯」なのだ。
その病は日を重ねる毎に、いよいよ膏肓に入ったかもしれん。
ところが、そうして帰りの電車に「彼女」と一緒に乗ることに喜びを見出して1週間くらい経ったころから、不思議なことに気付いた。
前にも書いたように、本音を言えば彼女に近付きたいのはヤマヤマだったが、かつて「痴漢扱いされて、危うくしょっ引かれるとこだった」前科に懲りていたオレとしては、遠慮してひとつ離れたドアのところで待つことを日課としていたのだ。
ところが、常にホームの先頭付近に立っている「彼女」は、ドアが開くと一目散にこちら側のドアに近い方まで移動してくるのである。
こっちが接近せずとも、わざわざ向こうからこちらに寄って来てくれるのは大歓迎なのだが、そこから「彼女」の姿は前に立ちふさがっている、肩幅の広そうな男の背後に隠れて見えなくなってしまうのだ。
さて、こちらから見て「彼女」の前に立っている男というのは、20代前半か半ばくらいの若者で、これが判で捺したように毎日同じパターンなのだった。
といっても、その男は自分や「彼女」が乗る駅では、既に「車中の人」であったから、大凡は名古屋駅辺りから乗っていると思われたが、その順序から言って「彼女」の方が、あの男の後ろを陣取っていることは認めないわけにはゆかぬ。
とはいえ通勤電車での行動というのは、これまでにも密かに観察してきたところでは、どうしても「パターン化」するものだから、彼女のあの行動にも特に大した意味はないのだろう、と思っていた。
単に、こちらとしてはあの邪魔な男のせいで、彼女の姿が見えなくなってしまっているのが恨めしいだけだった。
(こっちのドアからだと、彼女が男の背後に隠れてしまう・・・だったら、反対側のドアから乗るか・・・いや、しかしそうなると乗ってからの移動距離が長くなるし、あの満員電車の中をそんなに移動するのは目立ちすぎるからな・・・)
などと、懸命に(無い)知恵を絞りながら、なんとか彼女に近付いてその姿を観察したかった。
こっちから見ると、あたかもその男の背中に隠れるように接近している姿から、当初はてっきり恋人同士かと勘違いしたものだ。
が、二人の間には会話の気配はおろか、なにしろ男の方は全く振り返りもしていない様子から、赤の他人であるのは間違いないと判断できた。
という以前に、男の方はまったく「他の何かに気を取られたみたいに」彼女の存在にすら、気付いてすらいないように見える。
そのような状態が、数日繰り返された。
お目当の彼女は、依然として例の男の方の後ろにピッタリと、まるで「背後霊のように」頭を埋めるような姿勢だから、こちらからは彼女の姿を拝むことはまったく出来なかった。
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