その後の古墳時代には、王たちの巨大な墓が造られるようになるが、これには高度な土木工事が必要で、水田造成に共通する技術との関連性が高い。さらに王権に基づく集団的な労働力の動員が可能となったことに加えて、この時期におけるウシやウマの移入が、水田の発展に大きな効果をもたらした。しかも米は優秀な食品で、備蓄性が高いことから社会的な富と見なされ、租税として人々に賦課されるようになった。
やがて大和政権による全国統一が進んで、大化の改新を契機に古代律令国家が成立すると、その政策においても米が非常に重要視されるところとなる。栄養価の高い米は、古代人に力の源と見なされており、力餅や力ウドンという言葉が象徴するように、力の源となる米の加工品には特別な位置が与えられた。主税と書いて「チカラ」と読むのも、そうした事情によるもので最も重要な租税は米であった。それゆえ古代国家は、畑地は無視して水田のみを口分田として人々に与え、租すなわち米を最も重視した。それは土地政策にも如実に現れ、百万町歩開墾計画や三世一身の法・墾田永世資材法を発布し続けたのである。そして日本では、米の生産のために肉が犠牲とされた。
古代国家の最盛期の天武天皇4(675)年には、いわゆる肉食禁止令が出されている。しかし、これは単なる仏教による禁令ではなく、その前後の状況や他の法令から判断すれば米作りのための方策で、動物の肉を食べると稲作が失敗するという観念に基づくものであった。これは、先に見た『魏志』倭人伝の災いがあった時に肉を断つという伝統を引くもので、重要な願い事つまり稲の豊作のためには、肉を食べないとする思想の実現であったと考えられる。
一方、米は尊い聖なる食べ物としての位置を確立し、祭祀のなかで重要な役割を果たすようになる。現在でも、正月を始め村々や家々での祭祀の際に米は大切な捧げ物で、米から作った餅と酒は欠かすことができない。また天皇が執り行う新嘗祭・大嘗祭などの国家祭祀においても同様で、天皇が毎年皇居の水田で春には田植えをし、秋には稲刈りをする様子は、しばしば新聞・テレビでも報道されている。
こうして日本では、米のために肉を否定したが、やがて肉は穢れと見なされ米が聖なる食べ物として、社会的に受け容れられていくことになる。これが東南アジア・東アジアの稲作を受容しながらも、それらの地域とは非常に異なって、ブタを伴わない米文化を成立させるところとなった。それゆえ動物タンパク摂取の観点からは、肉の代わりに魚が重視され、最も典型的な形で米と魚の食文化が発達を見たのであり、鮨に象徴されるように魚食に特化した食事パターンが一般化した。さらに米を重視した古代国家においては、調味料も今日の日本食に近い状況が形成されつつあったことが窺われる。
国家機構の食事を預かる大膳職という部署には醤院がおかれたが、ここでは味噌や醤油の原型となる醤の管理が行われていた。先にも述べた魚醤は、日本へもかなり古い時代に入ったものと思われ、古代の『延喜式』などには肉醤も見えるなど一般的な調味料であった。しかし醤院で厳重に管理されていた醤は、明らかに穀醤で、極めて貴重な調味料として意識されていたことが窺われる。このように古代においては、その頂点をなす国家レベルで米を食事の中心とし、穀醤を主要な調味料とするような今日の日本食に近い味覚体系が、次第に形成されつつあったと見なしてよい。
国家の最高レベルでは、米を中心にいわば日本的な食事体系が整いつつあったが、食生活には極度な階層差がつきまとうことも忘れてはならない。確かに肉食は、穢れたものとして社会的に遠ざけられていったが、その本格的な排除にはかなりの時間を有したし、弥生時代のところで論じたように、米も人々に充分な量を供給できたわけではない。むしろ米は税として農民から吸収されたという事実は重く、かつ米はどこでも作れたわけではない。中でも日本で好まれる温帯ジャポニカは、適度な水と気温を必要とするため、基本的には水田が必要であった。
米作り=水田と考えるのは、あくまでも私たちの常識でしかなく、実は地下に含まれる充分な水量があれば、畑地でも稲作は可能である。東南アジア・東アジアでは、水田以外に畑地でも稲作が行われており、極端な場合には焼畑でも米が作られている。 これは熱帯ジャポニカとされる米の種類で、日本でも縄文時代に部分的に見られた稲作は、これを用いていた可能性が高いが、弥生時代以降の稲作は基本的には温帯ジャポニカが主流で、水田を前提とするものであった。それゆえ古代国家は、水田のみを重視したのである。
こうした日本での温帯ジャポニカ栽培は、先にも述べたように適度な水と温度管理を必要とするため、一歩それらの歯車が狂えば、たちまち凶作となって食料不足を惹き起こした。このため古代国家は、そうした場合に供えて農民には畑作も推奨し、麦で命を繋いで米を租税として納めるよう指導している。あくまでも米を中心として魚食を組み合わせた食事は、国家の官僚である貴族や地方役人である豪族、あるいは中央の大寺院の僧侶や神社の高級神主たちのものでしかなかった。多くの人々にとっては、米は貴重な食料であり、麦や雑穀もしくは芋などが身近な食べ物であった。もちろん穢れるとされる肉も、これを無視しては動物性タンパクの摂取に難しかった。
元々、古代の殺生禁断令でも禁止されたのはウシ・ウマ・サル・ニワトリ・イヌのみで、イノシシとシカは対象とはなっていなかった。肉をニクと読むのは音読みで、日本語としての訓はシシに過ぎず、イノシシ(猪)・カノシシ(鹿)・カモシシ(羚羊)は、古来から日本人が食べ続けてきた肉であった。しかし殺生禁断令以降、次第に肉が穢れたものと意識されたところから、イノシシやシカも穢れの対象となり、基本的に口にすることは避けられていった。ただ米の生産力が厳しかった段階においては、多くの人々に肉食は不可欠で広く食されていた。もちろん貴族や都市民の一部にも肉を好む人もおり、京都にもシシ肉が販売されるルートさえ成立していた。いわゆるシカの紅葉鍋・イノシシの牡丹鍋・ウマの桜鍋など野獣食の伝統は、鍋という調理法を別とすれば、かなり古い時代にまで溯ると考えて良いだろう。
ただ古代に始まった肉食の禁忌は、水田の開発と生産力の増強が進んだ中世という時代を通じて、徐々に社会の下層まで及んでいく。基本的に中世末期頃には、広く社会的に米飯を中心に、魚を添え野菜などを伴う今日に至る日本的食生活が完成をみる。これに呼応するように、中世を過ぎて近世に成立した江戸の幕藩体制は、経済的には石高制という形で、殆どの経済価値を米で表示するという、世界的にも特異な社会システムが誕生をみた。また近世においては、肉を食べると眼が潰れるとか口が曲がるとかいう俗信を生み出したが、社会の一部では薬喰いや鹿食免などと称して、肉食が行われていたことも忘れてはならない。
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