2016/02/19

大八嶋成出の段『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
知訶嶋(ちかのしま)。書紀の敏達、天武の巻には「血鹿嶋」と書いてある。釈日本紀によると「肥前國にあり、風土記によれば≪更に詔して『この島は遠くにあるのに、もっと近くにあるように見えるから近島と名付けよ』と言われた。そこで『値嘉嶋』と言う。あるいは百余りの近嶋があり、あるいは八十余りの近嶋がある」と言う。【この詔勅は、いつの御世のことだろうか。聖武紀に、松浦郡値嘉嶋とある。

ところが、三代実録に(大意:肥前國松浦郡の庇羅、値嘉両郷を分離して新たに上近、下近の二郡を創設し、値嘉嶋をそこに帰属させる。これらの郡は広大で人口も多く、珍しい産物が多い。また異国に隣接し唐や新羅からの使者、我が国から唐に向かう使者も必ずここを通過する。しかし住民からの訴えによると、唐人たちはここの香薬を好きなだけ取って行く。また海辺には奇石が多い。それは鍛錬すると銀を取ることができ、磨けば玉のように美しい。云々。公卿たちは朝廷に「両郷を分けて一つの島とするのは、公の利益であり柔軟に対処すべきである。すぐに請願のとおり処するつもりである。云々)【ここには一部省略して引用した。さて、この後はどうなったのやら。】

和名抄では、まだ松浦郡の郷名として載せてある。思うにこの嶋は、今の五嶋(列島)、平戸などの総称ではなかろうか。【ある人が「今筑前、肥前の境あたりの北の海に、ちかの嶋というのがある」と言うが、それは違う。】というのは、この嶋は歴史書にも登場するし、三代実録の記事からすると、大きな島のようであり、ある場所も記事によく合い、風土記に「多数ある」というのにも一致する。五島列島、平戸は、肥前の国の西北方の海から西へ遙かに連なっており、多数の島々がある。松浦郡に属している。【後に平戸と言うのは、その庇羅から出た名前であろう。三代実録の文によれば、それはこの島にある郷である。】

○天之忍男(あめのおしお)。名前の「忍」は、前述の「忍許呂別」と同じだ。延喜式には陸奥国行方郡に押雄(おしお)神社が載っている。これは「忍男」の例である。

兩兒嶋(ふたごのしま)は、この記事以外には、古い書物には見えない名である。ありかも分からない。【古今集「ほのぼのと明石の浦の云々」の歌(409)の顯昭注に「明石のおきに、はるかにちりぢりなる島ども見え侍り。ふたご嶋みなほし嶋たれか嶋くらかけ嶋家嶋など、うちちりたるやうに侍る云々」、同じようなことが袖中抄にもある。餘材抄には「顯昭の言う島々は、明石より遙かに西南の方にある。まだ現場を見ないで、推測で書いたものだろう」と書いてある。思うに、神名帳では家嶋は揖保郡なので、兩兒嶋も明石より遙か西南の方と言っても、まだ播磨のうちだろう。

しかし状況を考えると、ここの兩兒嶋はそれではなさそうだ。もっと西の筑紫周辺であろう。肥前の国、長崎西南の方、祝(いわう)嶋という島の近くに、二子(ふたご)島といって、小さな二つの島があるが、それでもない。またある人が「長門国の北の海に二生(ふたおい)島というのがある」と言う。前の八つの島は東から西へ、西から北へ、東へと生みながら廻っていた。この六島も東から西へ、西から北へ折れて、東へ廻ると思われるので、この場所も筋は通る。また伊邪那美の大神は、出雲と伯耆の境の比婆山に葬られたそうなので、その付近の国で薨じられたと思われる。これも上記の巡回経路に合っている。この島のことは、西海路を往来する船人などに聴いて、よく探索すべきである。】

あるいは書紀に隠岐の洲と佐渡の洲を双子に生んだ、とあるのを伝え誤って別に一つの島としたものだろうか。それとも書紀の双子に生んだという伝えの方が、この島の名の異伝だろうか。そうなら、この島が二つの島であって、双子に生んだから兩兒嶋というわけではないことになる。

○天兩屋(あめふたや)。天の字は、上述の一つ柱、一つ根の例にしたがって「あめ」と読む(「あめの」とは読まない)。屋の意味は分からない。【延佳は「細註の天兩屋は間違いで、兩兒嶋と書くべきではないか」と言ったが、それはよくない。こういうところで別名を書くのは、他にも例がある。「志那都比古神から野椎神まで四神」とあるところだ。野椎神も鹿屋野比賣神の別名ではないか。】

ここの六島を生んだ順序は、ありかが定かでないものもあるが、ともかく東から西に向かったのである。四海に島は数多い中に、八島に次いでこの六島を挙げたのは理由があってのことだろう。上代に特に名高かった島だけを挙げたのかもしれない。この二柱の大神が生んだのは、これだけとは限らないと思う。【六島みな西の方にある。神代の故事の多くが、西の国にある。】

ところが書紀では、大八洲の他には大神が生んだ島はなく「所々の島は、みな海の泡が凝固してできた、または水の泡が凝固したとも言う」とある。【この伝えによると、大八洲以外の島々は大神が産んだものではない。また所々の島といっても、小さい島とは限らない。大八洲以外をみなそう呼べば、大きな島もたくさんあるはずだ。すると皇国に属する島だけでなく、諸外国も大小を問わず、すべてその(泡の)うちということになる。】

この八島六島の別名を、それぞれの国御魂神と思うのは間違いだ。これは直接、その国を指して言う名前である。その名に女男がある理由は、まだ分からない。【国だけでなく山にも女男があり、いにしえに倭の国の三山が妻争いをしたという伝承が播磨國風土記、万葉巻一(13)などにある。】

○ある人がこう質問した。「二柱の大神が、人間が子を生むように国土を生んだというのは疑わしい。これは、それぞれの国の神を生んだことか、または国々を廻って経営したことの喩えではないのか。それは、初めの天神が『この漂っている国を修理固成せよ』と命じたとしても『国を生め』とは言っていないからだ。さあどうだ」

答え。「これを疑うのは、例のなまさかしらの漢意であって神の行いが奇(くす)しく霊妙で、人知によっては測りがたいことが分かっていないのだから論外だ。ただし天神の大命については、少々言うことがある。それは、まず夜見(黄泉)の段で、男神が言う「愛しい妻よ、二人で作った国は、まだ完成していないじゃないか」というのは、生むことは生んだけれども、まだ美しく完成していなかったのである。【これを治め完成させたのは、大汝と少名毘古那神の時だ。】

天神の大命は、漂っている潮を固めて、まずよりどころとなる島【おのごろ島】を成すことから初めて、国土を生み美しく完成するまでを含めていたのであって「つくる」という言葉の意味は広く、生むこともその中に入っている。前記の男神の言った「作った国」というのは「生んだ国」と言うのも同じであることで理解せよ。二柱の大神が国を完成させたという伝承はないので、この「つくる」というのは正に生んだことをいうのである。

【それでも、なお「生むと書いてあるのは経営のことだ」と言うなら、最初に御身の「成り合わざるところ」、「成り余れるところ」を尋ねて交合したことなど、詳しく述べているのはどういう意味があるのか。経営するには無関係のことである。書紀にも「子を生むときになって、まず淡路島を胞(え)とし」とか「隠岐洲と佐渡洲を双子に生み」とか言うのも、人間の子を生むように生んだからではないか。】

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