2016/02/14

日本食の起点(農林水産庁Web)

日本列島が今日のような形になったのは、氷河期が終わった縄文時代以降のことで、それ以前の大陸と地続きであった旧石器時代から、人々が住み着くようになった。 その時期については様々な議論があるが、早ければ78万年前、確実なところでは3万年前とされている。ただ低かった気温のため植物性食料への依存が難しかったことから、いきおい動物性食料が重視された。それゆえ人々は、マンモスやオオツノジカなどの大型獣をはじめ、そうした自然界からの様々な食料を入手し、日々を生き抜いていた。しかし温暖化が進み、海面が上昇した縄文時代になると、植生もかなり変わってドングリなどの木の実の食用が可能となった。

 

そうした食料の安定化は、人々に時間的余裕を与えるところとなり、道具の工夫や発達を促し、土器の製作が行われるようになると、煮炊きが一層容易なものとなった。 つまり加熱により、味覚のみならず解毒や保存にも大きな効力を発揮するようになった。特に長時間の加熱は、灰汁を除くことで木の実なども食べ易くなり、食物の範囲は急速に拡大した。こうして縄文時代においては、狩猟などによる動物食よりも、植物性食料が重要な役割を果たすようになる。

 

かつては食用植物の栽培、つまり農耕は弥生時代以降のこととされていたが、近年では縄文時代においても農耕が行われていたことが確認されている。縄文時代の始期については、近年では一万数千年前とされているが、ほぼ45000年前の縄文中期頃には農耕が行われていたものと考えられている。

 

すでに、この時期に一部では、おそらく焼畑によって稲作も行われていたようであるが、主要な生業となるには至らず、縄文晩期になって、ほぼ疑いなく半島経由で水田稲作が、北九州付近に伝わった。これは弥生時代に入り、かなりのスピードで本州や四国・九州へと広まっていった。ただ弥生水田は青森県にまで及ぶが、これは海路によるものと思われ、基本的に本州東部・北部には、その形跡が薄いとされている。ちなみに弥生時代については、かつて400年前後続いたと考えられていたが、近年では一千年近いとする説が有力視されている。いずれにしても弥生時代に、米を中心とした食文化の形成が日本で始まったことになる。

 

米は非常に生産効率が高いばかりでなく、食味が豊かで栄養価に優れ、かつ保存にも適した優秀な食べ物であった。こうして新たに始まった米を中心とする食文化が、その後の日本食の歴史に最も大きな影響を与えた。米は水田稲作の一環として稲とセットになる魚の保存法であるスシとともに、ブタの飼育という文化を伝えたものと思われる。まずスシについては確証があるわけではないが、稲作とともに水田漁業による魚を用いたナレズシが伝来した可能性が高く、琵琶湖に残るフナズシなどを、その名残と考えることもできる。すなわち、魚を米飯に合わせて圧力を加えることで発酵を促し、熟成による旨味を引き出すとともに長期の保存を可能にするもので、やがてこの原理を適応しつつ改良を進めて、江戸前の鮨が出現したことになる。

 

またブタに関しては、弥生時代のイノシシと考えられていた動物の骨が、近年では多くがブタのものとされるようになり、稲作の受容とともにブタの飼育が行われていたことが指摘されている。つまり弥生時代の米文化は、東南アジア・東アジアの場合と全く同様に、米と魚の組み合わせにブタという肉が付随したものであった。ただ『魏志』倭人伝などでは、死者の喪などの際に肉食が忌避されている点に留意すべきであろう。

 

いずれにしても、米を中心とした日本食という観点から考えた場合、水田稲作を全面的に展開し始めた弥生時代こそ、まさしくその起点であったと考えて疑いはない。ただ弥生時代の水田稲作は、必ずしも米という食料を全ての人々に行き渡らせたわけではなかった。つまり弥生時代でも、米以外の食料も重要な位置を占めており、ブタの飼育などを考え併せれば今日のものとは、かなり異なっていたとしなければならない。

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