神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
口語訳:さて、元に還って吉備の児島を生んだ。この島は別名を建日方別と言う。次に小豆島を生んだ。この島は別名を大野手比賣と言う。次に大島を生んだ。この島は別名を大多麻流別と言う。次に姫島(女嶋)を生んだ。この島は別名を天一根と言う。次に知訶島を生んだ。この島は別名を天之忍男と言う。次に兩兒嶋を生んだ。この島は別名を天兩屋と言う。≪吉備の児島から天兩屋嶋まで、合計六つの島である≫
還坐之時は「かえりまししときに」と読む。これは前記の八つの島を生み終わって、元のおのごろ島へ帰ったのである。ところが次の吉備の児島以降は、みなおのごろ島より西にあり帰り道というわけでもなく、おのごろ島のすぐ近くでもない。いったん還ってから、また西へ向かったのだ。【つまり前記の八島は、国の範囲を限る意味があって国名ともなり、これ以下はそれとは別ということである。】
○吉備兒嶋(きびのこじま)。吉備は、後に三国に分かれた。和名抄に備前【キビのミチのクチ】、備中【キビのミチのナカ】、備後【キビのミチのシリ】とあるのがそうだ。「吉備中國(キビのミチのナカのクニ)」が書紀の仁徳の巻にある。【これは、当時もう三国に分かれていたからだろうか。だが、この後も多くは、ただ吉備の国とのみ書かれている。天武の上巻に「吉備国守」という人が出ているが、三国全部を合わせた国守だったのだろうか。また同じ巻には吉備太宰という職も見える。】
和銅六年には、備前の国の六つの郡を分けて、美作の国としている。名は「黍(きみ)」から出たのだろう。【和名抄に「黍は『木美(きみ)』」とあるが、美と備は、いにしえは通わせるのが普通だった。】
兒嶋は、高津の宮(仁徳天皇)の段にも出ている。吉備の国に子供のようにくっついていることから出たのだろう。【一説に、昔、百済の人、兄弟三人がまだ子供だったときに、我が国に渡来し、吉備の国で一つの島に留まった。その旗印にみな「兒」という字を書いていたので、その島を兒嶋と名付けた。その兄弟は、後に三宅姓となり、宇喜多とも名乗った。これがこの国の宇喜多家の先祖である。というのだが、これは全く信じられない。】
万葉巻六に歌がある(967のことか?)。後に備前国の郡となった。書紀の欽明の巻に備前の兒嶋の郡とある。和名抄に兒嶋は【古之末(こしま)】とあるのがこれである。なお書紀では、この島を大八洲の一つに入れている。
○建日方別(たけひがたわけ)。この名は、他に日子刺肩別(ひこかたさしわけ)命という例があるので、建日(たけび)と読み、方別(かたわけ)とすべきだろうか。【そうであれば、日を濁り、方を済んで読む。】しかし、また新撰姓氏録には久斯比賀多(くしひがた)命の名があり、【櫛日方命とも書かれている。】
書紀では「天日方奇日方(あめヒガタくしヒガタ)命」と書く。【この命(みこと)は大神(おおみわ)の君と鴨の君の先祖である。しかし神名帳には、備前国邑久郡の美和神社、上道郡に大神神社があり、赤坂郡、津高郡および児島郡に鴨神社がある。これらも由縁があるのであろう。】これによると「ひがた」になる。【「日方」の意味は、水垣の宮(崇神天皇)の段で櫛御方(くしみかた)命のところで言うのを参照のこと。伝廿三の三十葉】また、「日方」という風もある。万葉巻七【二十一丁】(1231)に、「天霧相日方吹羅之(アマぎらいヒガタふくらし)云々」など。
○小豆嶋(あずきしま)は、備前と讃岐の間の海中の讃岐寄りにある。【淡路島の西、児島の東である。】続日本紀卅八には、備前國兒嶋郡小豆嶋と出ている。今は讃岐【寒川郡】に属している。この島は書紀の應神巻の歌にあり、前に【伊余の二名の嶋のところ】引いた通りである。その時、淡路から吉備に向かう途中、この島で遊んだということも書かれている。名の意味は考えつかない。字も正字(訓)か借字か分からない。
○大野手比賣(おおぬでひめ)。名の意味は分からない。あるいは「鐸(ぬで)」だろうか。【「手」の下にある《上》の字は、一本には「野」の下に書いてある。】
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