日本古代における料理様式については、史料的に不明な部分が多く、その内実を知ることができない。こうした料理は日常の食事とは異なり、祭礼などの儀式の際に最も手の込んだ食べ物が神仏に捧げられるもので、一定の様式を伴うと考えなければならない。その意味においては、神々への神饌を起源と考えてよいが、今日に見られる神饌には明治初年における神道祭式の変更が大きな影響を及ぼしている。
元々、神饌は食べ物を神に捧げた後に、祭祀に携わった人々が神と共に食べるものであるから、すでに調理を済ませた熟饌が基本となる。しかし明治以降は食材そのままの生饌中心に改めたため、古い形式が分からなくなってしまった。もちろん、春日大社や談山神社などの神饌から一定の形式を窺うことができるが、すでにこれらにはC半島を経由して入ってきた盛り物や仏教による彩色の影響が顕著で、それ以前の姿については不明とするほかはない。したがって日本で最も古い料理様式は神饌料理であったと考えられるが、その詳細については明確に出来ないのが現状である。
現在知りうる範囲で、最も古い料理様式が大饗料理となる。大饗料理は、藤原氏など高位の貴族が大臣に任じられた時や正月などに、天皇の親族を招いて行う儀式料理である。ただ、この時代は料理といっても生物や干物などを切って並べたもので、味付け自体は自分の手前に置かれた四種器と呼ばれる小さな皿に、塩や酢あるいは醤などを自ら合わせ、これに浸けて食べるだけであった。これは料理の最も原始的なもので、それぞれが餃子のたれを好みに合わせ作って食べることに似ている。
東南アジアなどで食事をすると、必ず食卓には何種類かの調味料がおかれてあり、それぞれが自分の好みに合わせて味を調える。K国でも必ずコチュジャンなどがおかれるほか、サムゲタンなども、古い店では食べる直前に塩・コショウを自分で調整する。
またギリシャなどでは、ワインビネガー、オリーブオイル、塩、コショウの四つがおかれており、サラダドレッシングは自分で好みに合わせたものを作るのが常識となっている。まさに大饗料理も同じ発想であった。
また大饗料理では料理の皿数は必ず偶数で、手元には箸と匙とが置かれている。匙はC半島では定着を見たが、日本では大饗料理に取り入れられたものの、一般に使用されることはなかった。しかも大饗料理は身分によって料理数は異なるが、盤上一面に並ぶ様子はC半島の韓定食に似ている。この他、小麦粉を練って油で揚げた八種唐菓子が添えられることなどからも、明らかに大饗料理はC半島経由で入ったC国料理の影響が著しいことが分かる。
こうした大饗料理は、古代の上層部で行われた料理様式であるが、古代国家が律令というC国の法律体系を模倣したように、儀式料理についても同様にC国のスタイルを真似て完成させたものであることが明らかである。ただ大饗料理にも、一部ではあるが日本的な特色を見出すことができる。それは切るという調理で、この頃から料理人を庖丁人と呼んだことに象徴される。また庖丁上手とは料理がうまいことで、切り口の冴えが料理の出来映えを決した。例えば美しく切った刺身が美味しいのは、するどい片刃の庖丁で魚肉の細胞を壊さずに切断することによって、肉汁の旨味を逃げ出させないという調理が施されたことになる。
日本の神饌の特徴は、美しく切ったものを、その切り口を見せながら重ね上げるのに対して、C半島などの盛り物は食品そのものを串などで積み上げるという点が異なる。大饗料理は明らかにC国の影響を受けたものであるが、そこには庖丁で美しく切ることを強調する日本的な特徴を読みとれるのである。
大饗料理以後のまとまった料理様式としては、禅宗の僧侶の間で行われた精進料理がある。平安時代末期には、奈良仏教や天台宗・真言宗に対する不満が高まり、真剣に仏教を志す僧侶の中には、C国での仏教修行を試みて南宋などに渡るものが少なくなかった。当時のC国仏教界では禅宗が最も重要視されており、そこでは肉食忌避の思想に基づいた精進料理が主流であった。
この精進料理は、唐代に西方から導入された水車動力によって製粉技術が著しく高まり、粉物の大量供給が可能となっていた。言うまでもなく、精進料理は仏教徒が肉を断つため、味わいとしては肉に近いものを口にできるような工夫が凝らされている。つまり植物性食料を濃い味の動物性食料の味に近づけるためには、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料を合わせる必要があり、整形の容易な粉食が大きな前提となっている。
ただ、いずれにしても味覚の調合という意味において、精進料理が料理技術に飛躍的な進歩をもたらしたことに疑いはない。しかも精進料理は僧侶自らが調理にあたるため、彼らは仏教修行のみならず料理技術も習得した。こうしてC国で禅宗を学んだ僧たちは、日本に帰って禅院を開くなどして修行するとともに、そこで精進料理を広めた。そうした禅僧たちの代表として、栄西や道元などが名を残した。なかでも道元は『赴粥飯法』、『典座教訓』といった書物を著し、精進料理そのものに関する記述はないが、食事の意味や禅院における料理当番の役割などについて言及している。おそらく道元は日本で初めて仏教の立場から、食べるという行為について深い哲学的な考察を行った人物でもあった。
こうして鎌倉期から南北朝期にかけて、精進料理はめざましい発達をみせたが、その代表例については『庭訓往来』十月状返に詳しい。ここでは、点心類として「鼈羮・猪羮・砂糖羊羹・饂飩・饅頭・索麺・碁子麺」など、菓子として「柑子・橘・熟瓜・煎餅・粢・興米・索餅」など、汁として「豆腐羮・雪林菜、並薯蕷・豆腐・笋蘿蔔・山葵寒汁」など、そして菜に「煮染牛房・昆布・烏頭布・荒布煮・黒煮蕗・蕪・酢漬茗荷・茄子酢菜・胡瓜・甘漬・納豆・煎豆・差酢若布・酒煎松茸・平茸雁煎・鴨煎」などが見える。
ここに特徴的なように、精進料理は穀物粉を用いたものや、様々に味付けられた野菜類・菌類のほか果物類が主体となっている。そして、スッポン・イノシシ・ガン・カモなどといった動物名が示すように、植物性食料を鳥獣肉に見立てて、それに近い味を出すところに特徴がある。こうして、肉食への願望を調理技術によって満たそうとしたのが精進料理であり、先にも述べたように、その実現には高い技術力が必要とされた。
こうした料理技術を蓄えていたのは、当然のことながら禅院の僧侶たちであった。 彼らは広い意味で料理人であるが、その伝統的な呼称である包丁人ではなく「調菜人」と呼ばれた。あくまでも魚鳥を扱うのが庖丁人で、調菜人は精進物を料理する僧侶の仕事であった。ただ本格的な精進料理は、禅院でも重要な茶礼などの際に供されるものであったが、こうした調菜人は精進料理のうち饅頭なども作ることから、単に禅院だけに止まらず贈答などに用いられた点心類の製造にも携わったものと考えられる。
いずれにしてもC国からの移入によって成立をみた精進料理は、初めは禅宗の寺院内部で発達をみたが、やがてその高度な調理技術は一般にも広まるところとなり、鎌倉期以降における料理文化の展開に大きな役割を果たしたとみてよいだろう。
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