2018/07/20

ペルシア戦争(3)

出典 http://www.geocities.jp/timeway/index.html

ところで、その前の段階でアテネの指導者達は、例のデルフォイの神殿の巫女さんにお伺いをたてていたのです。ペルシア軍が攻めてきたら、どうしたらよいかってね。

その時の神託が、こうだった。

「町も神殿も焼け落ちるだろう。しかし、木の壁に頼る限り、難攻不落である」

この神託をどう解釈するかで指導者達の意見は分かれたんです。「木の壁」とは何か、ですな。当時アクロポリスの上のパルテノン神殿は、木で造られていました。もともとアクロポリスというのは、戦争の時の最後の砦なので、「これはアクロポリスに立て籠って戦えというお告げだ」と考える人たちと、「木の壁」とは船のことである、と考えるグループがあった。船も木造ですからね。

結局「船グループ」の意見が勝って、この日に備えてアテネは軍船を大量に建 造していました。ペルシア軍がアテネを占領したときには女子供は離れ小島に待避していて、男達は最後の海戦に備えて準備万端だったわけです。

当時の軍船は、三段櫂船といいます。船の先端に衝角という鉄のかたまりが付いていて、これを敵船の横にぶつけて穴をあけて沈めてしまう、というのが海戦のやり方。船の機動力が高い方が勝ちますから、スピードアップのためにこぎ手がたくさんいた方がいい。そのために櫂を三段にして、こぎ手をぎっしり乗せる。一隻の乗員が200人で、こぎ手が180人。

普通は誰が櫂を漕いだかというと、これはどうも奴隷らしい。つらくしんどく 危険な仕事ですからね、なにしろ船が沈んだら、自分も死んでしまうわけです。

さて、アテネは軍船を200隻造りました。単純計算で乗組員全員で4万人要 ることになるんですよ。誰が、この船に乗り込んで漕ぐのか。このときに漕ぎ手となったのが、それまで戦争に参加することが出来なかった貧乏平民です。アテネを守るために、この奴隷の仕事を買って出ます。武器自弁が出来なくても、身体さえあれば船を漕げますからね。

彼らは自分たちのポリスを守るための戦いですから、士気は抜群です。一方のペルシア海軍の漕ぎ手は奴隷。しかも、アテネ側はペルシア海軍を狭いサラミス湾に誘い込みます。アテネのすぐ沖の海ですから、海流とか暗礁がどこにあるかとか、そういう事を知っているアテネが有利。というわけで最後のこのサラミスの海戦でペルシアは負けます。

このとき、ペルシアのクセルクセス大王は最終勝利をその目で見ようと岬の上から観戦していた。そうしたら自分の海軍が次々に沈んでいくんだ。クセルクセス、思わず「しまった」と膝を打ち、退却命令を出し、真っ先にギリシアから 逃れていきました。

陸上は制圧しているのに何故逃げるかというと、ギリシアは山国でもともと食糧に乏しいから、ペルシア軍の兵糧の現地調達は難しい。ペルシア軍30万の 兵糧は、海上輸送するつもりだったんですよ。その海軍がやられてしまって制海権をアテネに握られたら、ギリシアに遠征した30万人は飢えて死んでしまうわけです。

このあと、残存ペルシア軍とギリシア軍の戦いなどあるのですが、基本的にはサラミスの海戦で決着はつきました。サラミスの海戦を指揮したアテネの将軍がテミストクレス。その後、大いに羽振りを利かせますが、のちに陶片追放でアテネを追われてしまいました。どこに亡命したかというと、それがペルシアなんですよ。ペルシアも懐が深いね。

ちなみに、このときのペルシア海軍作戦会議の第一序列がシドン王、第二序列がティルス王だった。この戦争、海上貿易をめぐるフェニキア対ギリシアの争い という面がありそうです。

さて、戦争が終わってみるとサラミスの海戦で活躍した漕ぎ手、貧乏平民の発 言力が増すんですね。

俺達が漕いだから勝てたんだ!
俺達にも参政権を!

とい うわけです。

 また、いつペルシアが報復戦を仕掛けてくるか判らないわけですから、彼らの 要求をのまざるを得ない。こんなふうにして、すべての市民に参政権が与えられることになりました。貧乏平民という言い方をしてきましたが、これを格好良く言うと「無産市民」、財産のない市民という意味です。

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