ペルシア戦争(2)
出典 http://www.geocities.jp/timeway/index.html
アテネ民主政治の第二段階は、ペルシア戦争(前492~前479)です。
この戦争を通じて、武具を買えない貧乏平民も政治参加できるようになります。ペルシア戦争は、あのアケメネス朝ペルシアがギリシアに侵攻してくる、それをアテネなどのポリスが迎え撃つ戦争です。
戦争のきっかけは、ペルシア支配下のギリシア人の反乱でした。ペルシアの支 配下に入っていたイオニア地方のミレトスというポリスがペルシア帝国に反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧されるのですが、アテネがこれを援助して
いたことにペルシアの大王は激怒する。ダレイオス一世です。ペルシアは絶頂期ですね。
ペルシア帝国から見ればギリシア世界はちっぽけなモノですが、この策動を見逃しては、しめしがつかないとでも考えたのかも知れません。年表の期間中(前492~前479)ずっと戦争をしていたわけではなくて、
断続的に何回かの戦闘がありました。最初の大きな戦いが前490年、マラトンの戦いです。
これは、マラソン競技の元になったので有名ですね。ペルシア軍に勝利したニュースを早くアテネに伝えようと、一人の兵士が戦場からアテネの町まで走
りに走って息絶えたという話。でも、この話は作り話です。
実際のマラトンの戦いは、こんなふうです。マラトンというのは、アテネの北東約30キロにある海岸の地名です。エーゲ海に突き出たアッティカ半島の、アテネとは山を越えた反対側の海岸です。ここにペルシア軍3万人が上陸します。
アテネも全軍が出動して、これに対峙しました。アテネ軍9000、これに他のポリスからの応援が1000、合計1万の重装歩兵がギリシア連合軍です。ギリシア最強の陸軍国スパルタは、満月以前に出陣してはいけないという掟に従って出てきません。こういう非合理的なところで生きているのがまた、魅力的ではありますね。
ギリシア軍は、海岸に布陣したペルシア軍から1500メートル離れて布陣します。
ペルシアの戦法はまず、弓兵、弓ですね、これを敵に打ち込んで混乱させてか ら白兵戦に持ち込むんです。だから、弓が届かないところに布陣するんだね。そして戦闘開始とともに、重装歩兵達は弓の射程の中を全力で走り抜けました。重装歩兵の突撃に慣れないペルシア側は、算を乱して海上に逃れた。アテネ軍の死者は192名、ペルシア軍は死者6400名と伝えられています。この時の
アテネの将軍がミルティアデス。
さて、このあとなんです。ペルシア軍が退却したのはいいけれど、アテネ側が 冷静に考えると、この段階で全アテネ軍はマラトンに出陣しているので、アテネ市はまったくの無防備なわけです。ペルシア軍が半島を回り込んでアテネに上陸進攻してきたら、必ず街は落とされます。そこで重装歩兵1万は、重たい装備をつけたまま山越えをして、アテネまでの30キロを駆け続ける。
ようやくアテネに戻ると、なんとか間に合っていました。案の定、ペルシアの軍船が半島を回り込んでやってきましたが、さっき闘ったアテネ軍がもうこちらの海岸に戻って布陣しいるのを見て引き上げていった、というのが実際のマラトンの戦いです。
このときのペルシア側の戦い方を見ていると、無理をしていない。その10年後、今度はペルシアの大王クセルクセス自ら、軍隊を率いて攻めてきました。今度は本気です。30万の陸軍に海軍1000隻の兵力でした。
この大軍は、ダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島を南下してきました。これを迎え撃ったのが、スパルタ軍を中心とするギリシア軍7000。あまりにも少ないね。オリンピアの祭りで、みんな集まらなかったらしい。ただ、このスパルタ軍は最後の一人まで戦い抜いて、全員玉砕しました。これが、テルモピレーの戦い(前480)です。この戦いの指揮を執ったスパルタ王レオニダスは、後々
まで讃えられました。
テルモピレーの防衛線を突破したペルシア軍は、ギリシア本土に怒濤の進撃をし、 あちこちのポリスを攻略していきます。アテネも例外ではなくて、ペルシア軍に占領され町は破壊されました。
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