政治学
アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。
「人間は政治的生物である」と彼は定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係に、その原型を持つと言われる(ニコマコス倫理学)。
アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。
文学
アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、彼の『詩学』に、その根拠を求めている。
後世への影響
後世「万学の祖」と称されるように、アリストテレスのもたらした知識体系は網羅的であり、当時としては完成度が高く偉大なものであった。しかし、アリストテレスの学説の多くはローマ帝国崩壊後の混乱によって、西ヨーロッパではいったん殆どが忘れ去られた。ただし、6世紀にボエティウスが『範疇論』と『命題論』をラテン語訳しており、これによってわずかにアリストテレスの学説が伝えられ、中世のアリストテレス研究の端緒となった。
一方、西ヨーロッパで衰退したアリストテレスの学説は、東方のビザンツ帝国においてはよく維持され、529年にユスティニアヌス1世によってリュケイオンが閉鎖された後は、サーサーン朝ペルシアに移住したネストリウス派のキリスト教徒によって知識は保持され続けた。彼らは、ペルシア南西部のジュンディーシャープールに移住し、国王ホスロー1世の庇護のもとで、この時期にアリストテレスの著作のギリシア語からシリア語への翻訳が行われている。
こうした文献は、830年にアッバース朝の第7代カリフ・マームーンが、バグダードに設立した知恵の館に収集され、シリア語やギリシア語からアラビア語への翻訳が行われた。この大翻訳事業によって訳されたアリストテレスの著作は、イスラム文明に巨大な影響を与え、イスラム科学の隆盛の礎を築いた。なかでも、イブン・スィーナーはアリストテレスの影響を大きく受けており、アリストテレス哲学とイスラム科学との橋渡しの役割を果たした。
こうして保持され進化したアリストテレス哲学は、1150年から1210年にかけてアラビア語からラテン語にいくつかのアリストテレスの著作が翻訳されたことにより、ヨーロッパに再導入された。アリストテレスの学説はスコラ学に大きな影響を与え、13世紀のトマス・アクィナスによる神学への導入を経て、中世ヨーロッパの学者たちから支持されることになる。しかし、アリストテレスの諸説の妥当な部分だけでなく、混入した誤謬までもが無批判に支持されることになった。
例えば、現代の物理学、生物学に関る説では、デモクリトスの「原子論」「脳が知的活動の中心」説に対する、アリストテレスの「4元素論」「脳は血液を冷やす機関」説等も信奉され続けることになり、中世に至るまでこの学説に異論を唱える者は出てこなかった。
さらに、ガリレオ・ガリレイは太陽中心説(地動説)を巡って生涯アリストテレス学派と対立し、結果として裁判にまで巻き込まれることになった。当時のアリストテレス学派は、望遠鏡を「アリストテレスを侮辱する悪魔の道具」と見なし、覗くことすら拒んだとも言われる。古代ギリシアにおいて、大いに科学を進歩させたアリストテレスの説が、後の時代には逆にそれを遅らせてしまったという皮肉な事態を招いたことになる。
ただ、その後の哲学におけるアリストテレスの影響も、忘れてはならない。例えば、エドムント・フッサールの師であった哲学者フランツ・ブレンターノは、志向性という概念は自分が発見したものではなく、アリストテレスやスコラ哲学がすでに知っていたものであることを強調している。
エピソード
ウニ類の正形類とタコノマクラ類が持っている口器をアリストテレスの提灯と呼ぶ。アリストテレスが、この口器の構造を調べて記録していることから、その名がつけられた。
A・E・ヴァン・ヴォークトのSF作品『非Aの世界』のAはアリストテレスのことで、一般意味論から出た言葉である。
1941年から、ギリシャで発行されていた旧1ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。
出典 Wikipedia
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