さて、イエスその人のことですが、母がマリア、これはみんな知っているね。聖母マリアといわれる。父親は知っているかな。ヨセフです。この人は大工さん。父ヨセフ、母マリア、ですめば簡単なんですが、これが意外とややこしい。後にキリスト教の教義が確立する中で、マリアは処女のままで身ごもって、イエスが生まれたということになります。現実にはそんなことはあり得ないので、一体この話は何を意味しているのかと言うことになる。
どうも、こういうことらしい。マリアとヨセフは婚約者同士でした。ところが婚約中に、マリアのお腹がどんどん大きくなるんだね。誰かと何かがあったんでしょう。どんな事情があったかはわかりませんよ。
ヨセフとしては、身に覚えがない。不埒な女だ、と婚約破棄をしても誰にも非難されません。婚約破棄するのが普通だろうね。聖書を読むと、やはりヨセフは悩んだらしい。しかし、結局そんなマリアを受け入れて結婚したんだね。そして、生まれたのがイエスです。
マリアとヨセフはその後、何人も子供をつくっています。イエスには、弟妹何人かいたようです。
で、イエスの出生の事情というのは、村のみんなが知っていたようです。後にイエスが布教活動をはじめて、自分の故郷の近くでも説法をします。その時、同郷の者達が来ていてイエスを野次る。その野次の言葉が「あれは、マリアの子イエスじゃないか!」と言うんだね。
誰々の子誰々というのが当時、人を呼ぶときの一般的な言い方なのですが、普通は父親の名に続けて本人の名を呼ぶ。だから、イエスなら「ヨセフの子イエス」と呼ぶべきなんです。「マリアの子イエス」ということは「お前の母ちゃんはマリアだが、親父は誰かわからんじゃないか」「不義の子」と言う意味なんです。だから、かれの出生は秘密でもなんでもなかった。イエス自身も、そのことを知っていたでしょう。
イエス自身が、戒律からはみだした生まれ方をしていたんだ。「不義の子」イエスは、だからこそのちに、最も貧しく虐げられ絶望の中で生きていかざるを得ない人々の側に立って、救いを説くことになったのだと思います。
「聖母マリアの処女懐胎」という言葉には、そんな背景が隠されているのです。
イエスの若い時代のことはわかりません。多分、ヨセフと一緒に大工をしていたんでしょう。30歳を超えたあたりから突如、布教活動を開始します。
注意して欲しいですが、イエスはあくまでもユダヤ教徒ですよ。新しい宗教を創ろうと考えていたわけではありません。律法主義に偏っているユダヤ教を改革しようと考えていたのだと思います。
先ほど触れたことの繰り返しになりますが、イエスの教えの特徴をもう一度、見ておきましょう。
まず、ユダヤ教の戒律を無視します。最も基本的な戒律の安息日も、平気で無視する。こんな言葉が残っています。
「安息日が人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」
次に、階級、貧富の差を超えた「神の愛」を説いたと言われます。身分が卑しくても、貧乏でも、戒律を守れなくても、神は愛し救ってくれるというんだね。
有名なイエスの言葉で、
「金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」
というのがある。ぶっちゃけて言えば、金持ちは救われない、と言っている。じゃあ、誰が救われるか、それは君たち貧乏人だよ。イエスは、そういっているんでしょう。
ユダヤ教のヤハウェの神は、厳しい怒りの神です。アダムとイヴが知恵の実を食べたら、怒って楽園追放でしょ、ノア以外の人類は洪水で皆殺し、バベルの塔も破壊して人類を四方に飛ばして言葉を乱した。怒って罰を与える怖い神です。
この神の解釈をイエスは変えてしまった。怒りの神から愛の神へ変える。神がわれわれを愛してくれているように、われわれも敵味方の分け隔てを止めるように説きます。
「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」という。汝の敵を愛せということですね。この言葉は、すごく衝撃的な響きだったと思うよ。
この地域の伝統は何かというと、ハンムラビ法典以来、「目には目を、歯には歯を」でしょ。だから、右の頬を殴られたら殴り返すのが常識。ところが、イエスは左も殴らせてやれ、という。常識をひっくり返す。人間は、それまで疑ったこともなかった常識をバッとひっくり返されたときに、そのものに強く惹かれるということがあります。イエスは、まさにそれをやり続けた。
それから、イエスは説法で「時は満ちた、神の国は近づいた」という。この「神の国」は「イスラエル」と発音したらしい。イエスの話を聞いた人々の中には「イスラエル」という言葉から、過去に栄えたユダヤ人の国家イスラエル王国を連想する人々もいたんだ。その人たちは、イエスは宗教家の姿を借りてローマからの独立、ユダヤ人国家の復活を計画しているのだ、と期待しました。宗教的な救いと政治的な救い、周囲の人たちはイエスに色々な期待を持つようになります。
イエスの活動で避けて通れないのが奇跡です。言葉による布教と同時に、イエスは行く先々で奇跡を起こします。具体的には病癒しが多い。どんどん病気を治していくんだ。聖書には、イエスがどこかの町に現れると、人々が病人をどんどん連れてきてごった返すありさまが書かれています。
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