自然は目的に向かっている
さて、その事物中心の彼の世界についての考え方はどんなものであったか、といいますと、一口で「はしご、ないし階段的構造」だと言えます。つまり下のものは、上のものになろうとしている、と考えられています。断絶はありません。「自然は一つ」なのです。
ニワトリの例で「はしご・階段」を説明してみますと、ニワトリは卵(ニワトリの材料・質料)の「形相」です。しかし、このニワトリは同時に、フライド・チキンの材料(質料)となっています。フライド・チキンは、ニワトリという「質料」の「形相」なのです。さらに、フライド・チキンは、人間の「血・肉」の材料(質料)となります。物事はこのように、何かの「形相であると同時に、何かの質料」なのです。
勿論、人間の目に、この関係がよく見えないものもたくさんあるでしょうが、自然世界は連なっているのですから、何らかの繋がりの「仕方」というものがある筈です。その繋がりの仕方を、アリストテレスはこのように見たのです。しかし、こういう「繋がり」を起こすものがなければならない筈で、また何時まで経ってもこの繋がりが終わらない、では困ります。ここにアリストテレスは「第一の運動を起こすもの、および最後の形相」をいわなくてはならなくなります。勿論、同時に、「もう決して何かの形相ではない、ただの質料」もいわなくてはなりません。
最終目的
この「最後の形相」というのは、もう決して他の物の「質料」になることのない「純粋の形相」です。で、結局、あらゆる事物は、これを目指しているということになるわけで、そういう意味でこれはすべてのものを動かしている「第一の起動者」ということになり、したがって、この自然世界のこういう「繋がり」の在り方をつくりあげた「張本人」ということになるわけです。
これはもう自然世界の中に探せませんから、アリストテレスは「神」などとも呼んでいます。これは「完全そのもの」「善そのもの」であって、すべての事物はこれを目指して生まれ成長していくのだ、というわけです。それを目指していくことが事物の存在理由なのです。そうしてこそ、自然全体が完成するからです。ここも、すべてはイデアを憧れ存在している、としたプラトンを引き継いでいます。
倫理学
世界がこんな具合に考えられているわけですから、人間のことにしても同じで、存在の階段で言えば「人間は、動物の上にいて神の下」にいることになります。そして、人間に自然的に与えられているあらゆる能力が発揮されて神に向かって行っていれば、その人は「善く」、したがって「幸福」ということになります。具体的にはどういうことになるでしょう。
通常、人は幸福を「快楽」に求めているようです。そのために金を求めます。確かに、色々な物に不足してヒーヒー言っていては「幸福」とは言えないかもしれません。災害や病気に苦しんでいても、幸福には具合が悪そうです。しかし、それらが満足されれば「幸福」なのでしょうか。どうも人は、これだけではダメなようです。
つまり、一方で人間は金をかけても、人に知られなくても、いろいろ「自分を磨こう」とします。これは「何かの功利のため」というものではありません。ただ、その人の「人としての在り方を磨いている」だけのことです。しかし、ここに人は満足を覚え、また、あるいはその人は一層の尊敬を得たりします。もっとも、そのために磨いたというわけではないのですが、そう評価されてくるわけです。人は、どういうわけか、自分では「金」を一番大事にするくせに、金を儲けた人を尊敬するということは決してなく、むしろ、「人間を磨いている人」をやっぱり尊敬してしまうのです。何とはなく、それが「人間には最も大事」なことだということを、薄々ながら知っているからです。
こんなわけで、人の幸福には「生命的・生物的満足」と「社会的な、徳的な生活」と「精神的・理性的・知性的」な在り方と三つが実現してこなければならない、となります。これは人間にある様々の能力、「生命的、成長的能力」や「感覚的、欲望的能力」そして「徳的な能力」さらに「理性的、知性的能力」が開化した状態であることはいうまでもありません。しかもこれは「階段的」です。
つまり、「感覚・欲望」はすべての生物が持っています。ところが「徳的な能力」は人間だけです。さらに「完全な理性」となると神様だけです。もちろん、人間もそれに与っては居ますが不完全です。これがより花開けば、人間は「神に近い」と言えるでしょう。人間は、そうして「人間だけの能力、徳的な能力」を発揮し、そして持ち物としては「より少ない理性」を「より多く持つことができるようにしよう」と生きていきます。それが人間の存在の意味だと考えられるからです。「欲望」にまみれていては「動物」に成り下がってしまうわけです。
要するに、人間の能力の中で「人間固有のものとして、最も人間的な能力」、つまり一番「神に近い能力」は「理性」だということになりますから、理性が花咲いているのが一番優れていて、一番幸福だということになります。つまり、理性が真理を知って、それを見て喜ぶ在り方で、これを「観想的生活」などと呼んでいます。
人間は社会的生物である
ただし、これはまあ理屈の上ということで、実際にはアリストテレスは「人間は社会的動物である」として、その社会において求められる「徳的な生活」に一番力点をおいて、人間の在り方と幸福を語ってきます。
そこで展開されるのが「中間」というありかたで、これは様々の条件下において要求される行為の在り方で、「バランス」「調和」と考えると分かりやすいでしょう。つまり、勇気ということだったら、「蛮勇・猪突猛進」になっては、これは「バカ」と言われるだけになり、逃げてばっかりでは「臆病、卑怯者」になってしまいます。そこで、その「中間」を求めなければならない、ということになるわけです。この時、その状況によって、その「中間」は異なってきます。
たとえば、暴漢が暴れているという時、か弱い女の子が立ち向かって行くのは猪突猛進であり感心しません。かえって厄介なことになってしまいます。彼女に要求されるのは、警官を呼びに走ることくらいです。しかし、この場に屈強な警官がいたとして、彼が怖がって他の警官を呼びに走ったとなると、これは困りものです。万事につけてそうです。ですから「中間・バランス」を求めるのは、結構難しい。そこでアリストテレスは、人が「つい陥りやすい傾向の逆の方に自分を向けたら」、などとアドバイスしてきます。「事実」を重視するアリストテレスですから、彼の倫理学はかなり現実的です。