出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
アリストテレスの存在の捕らえ方
アリストテレスは、よく「プラトンと正反対」と紹介されることがあります。これは事物を考える時、「超越的本質」の視点で考えるか「現実的個物」で考えるかという視点で対比させた時の言葉で、この限りでは反対と言えます。
ただし、それは「プラトンの思考の展開」という内容を持ち、プラトンとは全く発想法も違う、という意味ではありません。ただ、アリストテレスの思考法には「小難しい」と思う人が多いようです。じっくり議論を追っていくことが必要です。
取りあえず、プラトンの発展とは何であったかというと、プラトンの「イデア」がある意味で「超越的」であったのを「事物のうち」に持ってきてしまい、ようするに「内在」させた、ということで一言に言えます。ということはイデアを、たとえばニワトリならニワトリの「種という概念(類とか種の「種」です)」にしてしまった、と考えるとわかりやすいかもしれません。
どういうことかというと、現実のニワトリは個々みな異なっているわけですが、みんな「ニワトリ」という「種」を持っており、どんな変わり者も「アヒル」とは呼ばれません。
さて、卵からニワトリが生まれます。この卵は、はじめから「ニワトリになる可能性」を持っていて、それ以外のものになる可能性は持っていません。どうして、こういうことになるのか。プラトンの場合は、「卵とニワトリ」なんぞという事物の関係はさておいて、ニワトリは「ニワトリのイデアに参与」することでニワトリになっていたのですが、アリストテレスは、この卵のうちにニワトリが「可能的に内在」していたのだ、と考えたのです。これは「個物」に視点を置き、その個物の特質を個々の個物に共通の「種」とする考え方だと言って良いでしょう。
今、「ニワトリという形が、すでに卵のうちにあった」と言いましたが、この「形」のことをアリストテレスは「エイドス(これを「形相」と訳しています)」と呼んでいます。先生のプラトン、あるいは大先生ソクラテスの用語そのままですが、それはどのようなものでしょうか。
可能態から現実態
さて、卵という「ニワトリの材料」は(「材料」とは「ヒュレー」という原語ですが、日本では「質料」と訳しています)、何らかの「形相(つまり「エイドス」ですが、これは「物事をそういう形とする原因」であり、ある意味でプラトンの「イデア」を引き継いでいます)」を内に宿しており、そしてその質料の内なる形相は「可能態」から「現実態」へと移行していくのだ、ということになります。
ではどんな具合に「材料・質料は形相を実現させていこう」とするのか。物事が生じてくるためには「原因」が必要です。雨で言えば、先ず「材料」となる水蒸気がなければなりません。次に、それが冷やされるという「作用」がなければなりません。そしてさらに、雨という「形」がなければなりません。
ニワトリの場合でも、卵という「材料」があって、暖められるという「作用」があって、ニワトリという「形」が必要なのと同じです。こうして三つの原因があげられましたが、しかし、これは「何のため」なのでしょう。例えば彫刻家が「ヴィーナス像」を創るとして、彼は何のために像をつくるのでしょう。それはたとえば「奉納するためとか、飾りにするため」とかの目的のことです。その「目的」がなければ、彼は像を創りませんから、像はでき上がってこないでしょう。同じように、事物が出来上がってくるのには「目的」がある筈なのです。
四つの原因
このように、原因には「材料(質料)」「作用(運動)」「形(形相)」「目的」の四つがあって、これらが全部揃って初めて事物は生じてくるとなります。
これは人間の造る「物、たとえばヴィーナス像」なら分かりやすいですが、しかしこれと同じことは自然世界にもあると考えられているのです。自然は無駄には何も造らないし、かといって「ただの物体の機械的運動」でもないと考えられているのです。なぜなら、もしそうだとしたらこの「自然そのものに意味はなくなり」その中にある「人間も意味がないもの」となり、生きることにも意味はなくなり、「善だの悪だの正義・不正義」と騒ぐのも馬鹿らしいことになるからです。
ということは、自然そのものに「意図」や「目的」があることになります。これは、すでにプラトンも問題にしています。つまりプラトンの場合だと、全ての事物はそれが「良い」と言われる、その在り方を目指して存在しているのです。「良さ」はイデアにあります。全てのイデアは「善のイデア」に統括されているのです。こうして事物はイデアを「憧れて」存在し、そのイデアになろうとしている限りにおいて「善」を目指していることになり、「世界が完成」していく、といった具合です。
アリストテレスも、この考えを受け継いでいます。つまり、雨が降るのはたとえば大地を潤し気候を整え動物・植物を育む等々のためであり、それはそうすることで「自然世界が自然世界として成立する」からです。つまり、あらゆるものは「何か」のためにあり、巡り巡って自然世界全体が完結するのです。この構造はもう少し後で示します。
ともかく、こうして事物の存在の原因として、四つがいわれることになりました。まとめると、材料としての「質料」、作用としての「運動」、できあがるべき「形」、そして「目的」です。「形」というのは、要するに「目的」であり、「目的」というのは「形」を実現することですから、これらはある意味で一緒になってきます。また、運動というのも、その「目的」たる「形」を目指すということで発動されるのですから、これもその「目的」、「形」と一緒になってきます。ですから、大事なのは「質料」と「形相ないし目的」ということになります。
話をソクラテス以前の自然学者に返すと、アリストテレスに言わせると彼らはこの「質料」や「運動」、あるいは目指さるべき「形」などについて議論していた、という評価になるのです。その限りで彼らも「フィロソフィア」をしていたといえるだろう、とアリストテレスは言ったのでした。
カテゴリー
こうした考えは、勿論「事物」の緻密な観察、分析に基づいています。彼は事物の存在の在り方も、ただ漠然と「在る」などとはしませんでした。事物は、ある「個体」について白いとか黒いとかの「性質」、30センチとかいった「量」、どこそこにいるといった「場所」そのほか、「何時」とか、「何をしている」、とか「どんな目にあっている」とか、「どんな状態」とか、そんな具合に10の在り方(これを「カテゴリー」と呼びます)に区分して考えています。
そういう緻密さと、イデアを事物に内在させたような「事物中心」のものの考え方が、アリストテレスの特徴と言えるでしょう。この「事物中心」の考え方が、「超越的イデア」を中心とするプラトンと「正反対」と言われるわけです。
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