2020/01/23

イエス・キリスト(7) ~ 愛の神


 一般にキリスト教が紹介される時には「愛の宗教」であると紹介され「右の頬をぶたれたら左の頬も差出しなさい」とか「剣を持つものは剣によって滅びる」というイエスの言葉も紹介されて「赦しの宗教」であるとも「平和の宗教」でもある、などと言われます。そしてイエスの教え自体は、これで全く正しいです。

 イエスの教えは「虐げられている者、貧しい者、悲しんでいる者、苦しんでいる者の救済」にあり、それ以外ではありません。ですからイエスは「救済の神」を教え、その神は貧しく踏みつけられ、悲しんでいる者を救う「愛の神」だと教えたのです。この「愛の神」という考え方はユダヤ教にはなく、またゾロアスター教にも明確にはありません。これがイエスの最大特徴と言えるわけで、ここにユダヤ教的な「見張っていて罰を与える神」は「愛し見守っている神」へと変貌していったと言えます。

 その背後の思想としては「宇宙を創造し、万物を支配し、その配慮は宇宙全体に及ぶ」とするユダヤ教の神のあり方を引き継いでいますが、このあり方を「愛」だと捕らえ返しているというわけでした。

 そして、モーゼ以来の「戒律」の思想も引き継いでいますが、ここでもイエスはそれを「愛の実践」と捕らえ返し、そのための「悔い改め」を要請しました。

 しかし、イエスは「絶対善としての神」「魂の不滅」「天国」「復活」「最後の審判」とかのペルシャのゾロアスター教にあった思想も引き継いでいます。

イエスの本来の教えとは
 イエスの「思想」といっても、イエスによる教えそのものは子どもにも分かるような、優しく単純な形で述べられた筈です。そうでないと一般の人々、とくに下層の人々に伝わり広まることは、あり得ないからです。しかし、それを一つの思想としてまとめようとした時には、その特質は次の四つで説明できると言えます。

1、ユダヤ教的「律法主義」「戒律主義」に対する批判
2、神とは「」であり、その神の配慮は全存在に及んでいる、ということ。
3、神の国の成就は、今まさにきたらんとしているということ。
4、人は、その神の国へ入るべく「悔い改め」なければならないこと。

 1というのは、当時のユダヤ教の教えが、「神の約束を得る」に至るためには「戒律」を守ることにあるとして、しかもそれを「文字通り」に拘泥して押しつけていたことに対する反論です。イエスによれば、この「文字通り」の拘泥というのは律法の「精神」を忘れさせ、ただ「現象」としてそう「見えて」いれば良いということになっているではないか、というわけでした。

 たとえば「安息日」の戒律にしても、本来は日々の厳しい労働のうちに忘れがちとなる「神」を心のうちにしっかり思い起こして、感謝し祈り、人間の罪を顧みて心静かにしているということが要求されたものなのだろう、とイエスは考えたようでした。ところがユダヤ教にあっては「ただ労働しない」ということだけが要求され、その要求は「文字通り」すべての「働き」に適用されたので、イエスが苦しんでいる病人を看護してさえ、また弟子が畑の傍らを通り過ぎる時、麦の穂をつまんで食べたのさえ非難されるようになっていました。これでは「貧しく虐げられている人々」は、さらに見捨てられ辛く悲しく苦しいことになってしまいます。こうしたあり方に対してイエスは批判して、「律法」本来の精神を取り戻そうとしたのです。

 2というのは、ユダヤ教の「」が妬みの神であり、見張っていて「」を与えてくる神と捕らえていたのに対し、「神」というのは本来「愛」をもって見守っているもの、離反し「罪」の中に居て、今も彷徨っている人間を救おうとしているものだ、と理解した点です。有名な「迷える小羊」の比喩や「放蕩息子」の譬えなど、みなこの思想を表したものです。

 3は、その「神」の救いの現れる日は「今」である、という考えで、悔い改めは「今」要求されるのです。今は仕事で忙しいから、またあとで暇になったら考えますといった悠長な事柄ではない、ということです。イエスの場面では、これは「精神的・思想的」なこととして解釈されたのではなく、文字通り「現実の今」最後の審判、神の国の到来があると信じられていたようです。したがって、イエスは「教団・教会」を創って未来に伝道しようなどとは夢にも考えていません。しかし、実際問題としてイエスが昇天して弟子達による教団が創られた段階で、これを精神的に解釈する必要が出てきてしまったのです。

 4の「悔い改め」というのは洗礼者ヨハネを引き継いだものですが、今ある自分を顧みて、その不完全性・欲望的な悪性を知り、それを否定し新たな自己にならねばならない決意を言うものです。洗礼とはそういうもので、罪ある自分を「一度水に入って死に」新たな者、神に従うものとして「生まれ変わる」ということを表現したものです。

 結局、何が要求されるのかというと、これもイエスは簡潔な表現で言っています。マルコ福音書では律法についての議論において、イエスは第一の掟は「神なる主は一つなる主、神なる主を心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛すること。第二は、隣人をあなた自身として愛すること」と言っています。この第二の掟が通常有名な黄金律となって表現されて、マタイ福音書とルカ福音書の二つで言われている言葉、すなわち「あなたが人からして欲しいと思うことを人にも為せ、それが律法と預言とに他ならない」というものになりました。

 このように、イエスは律法についてユダヤ教的な解釈を退けました。といっても律法を廃棄しようとしていたのではありません。それはイエス自身が、はっきり言っていますが「私が来たのは律法を成就するためだ」と言っています。しかし、その律法は文書としては複雑です。しかも一つ一つやっていこうとしたら、ほとんどガンジガラメになってしまいます。イエスは、そんなユダヤ教的考え方は駄目だ、というのであって「その言わんとしているところ、精神を理解しろ」と言っているのです。

 そして、その精神はどこにあるかを示そうとして「神を思うような愛に由来する愛ですべての人々を愛すれば、すべての律法は自ずと成就してくる」というのです。愛さえあれば「勇気を持ち、寛大となり、自分の欲望を抑え、公平・公正になり、他人を思い、平和を望む等々」というわけです。こうであれば、万巻の書に書かれている「人としてのあるべきありかた」はすべて全うされてくる、というわけです。「愛こそすべて」というのが、イエスの教えでした。

 ですから、イエスは自分がユダヤ教徒に捕らわれた時、守ろうとした弟子に「剣を持つ者は剣によって滅ぶ」と諭して争いを止めさせ、また「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と言って「忍耐」を説いていたのです。イエスにとっては「誠実に神を愛すること、その愛によって他の人々を愛すること、誠実であること、平和を愛すること」だけが要求されることだったのです。

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