サウロの精力的な伝道活動
キリスト教を迫害していたパウロの回心に驚く人も多くいました。それでもサウロは、イエスの正しさを伝え歩き続けました。サウロの豹変した行動は、ユダヤ人共同体の中に大きな混乱を巻き起こし、それまでサウロの味方だったユダヤ教信者たちは、彼を危険人物とみなして命を狙うようになりました。
そのため、サウロは夜逃げをせざるを得なくなりました。籠に乗せられて町の城壁から吊り降ろされ、ダマスコを脱出。エルサレムで弟子たちのもとに行きましたが、恐れられました。しかし、指導者の1人バルナバの説得によって、しぶしぶパウロを受け入れました。
その後、パウロはバルナバとともに、およそ1年の間、アンティオキアでイエスの教えを人々に伝えました。さらに、パウロはバルナバや後の同行者シラスとともに、現在のトルコからギリシアにかけての町々に教会を創設しました。
これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。
「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと昼も夜も町の門で見張っていた。
新約聖書/使徒言行録9章21節~24節(新共同訳)
そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し信者の数が増えていった。
新約聖書/使徒言行録9章25節~31節(新共同訳)
パウロの宣教旅行
1人でも多くの人にイエスの教えを広めようと、パウロは小アジアやギリシアへの宣教旅行に3回出かけました。1回目はバルナバとともに、キプロス島を中心に布教活動を行い、2回目以降はギリシアの地まで足を伸ばしています。この宣教旅行の頃から、サウロはパウロに改名(「サウロ」はヘブライ名で、「パウロ」はギリシア名と言われる場合もあります)したと言われています。
各地で、鞭で打たれたり石を投げられたり、不法な監禁や投獄など度重なる迫害にも、パウロは少しもひるむことなく立ち向かって行ったと伝えられています。
パウロが3回目の旅行から戻ったとき、敵対するユダヤ人によって捕らえられ、裁判にかけられました。パウロは自らローマ皇帝に上訴して無罪を訴えたいと希望し、ローマへ送られました。
パウロはローマの市民権を持っていたため、皇帝へ上訴することができました。
ローマでは、兵士に監視され、軟禁状態であったものの家を借りて、比較的自由に過ごすことができました。そんな中で、パウロは各地のキリスト教徒たちに励ましの手紙を書き、布教と信仰の強化に努めました。
パウロが書いた信者たちへの手紙は「新約聖書」に記録されており、「新約聖書」の27書のうち13の手紙が、パウロによって書かれたと言われています。
しかし、そのような生活も二年間で終わりを告げることになります。紀元64年7月18日、ローマで大火が起こりました。そして、皇帝ネロは大火の原因をキリスト教徒による放火と断定しました。そして、ローマ市内に在住するキリスト教徒たちを逮捕、厳罰に処しました。その中にパウロも含まれており、紀元65年頃、パウロは斬首されて殉教したと伝えられています。
パウロは12使徒の一員でもなく、生前のイエスに一度も会ったことはありませんでした。しかし、イエスの声を聞くという奇蹟によって回心しました。パウロは、命をかけてキリスト教を世界中に布教した偉大な功労者と言われています。
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