建築
道教の宗教活動のための施設は「道観」(道宮・道院)と呼ばれ、現存するものとしては宋元時代に由来を持つものが最古である。ただし、道教建築にはさまざまな要素が混在しており、仏寺・道観・民間祠が区別しがたい場合も多い。道教研究者の奈良行博は、道教の祀廟(礼拝活動をする施設)を以下の三種に分けて整理している。
朝祭系祀廟
中国では古くから五嶽に対する信仰があり、道教でも聖地として尊ばれた。泰山や華山に山裾には嶽神を祀る巨大な嶽神廟が建てられた。基本的には山の南側に立地し、廟の背後から山体をさらに北側へと遥拝できるようになっている。これらは元は朝廷祭祀用の施設であったが、道教や仏教の活動拠点となった。
平地都市型祀廟
平地に建設される祀廟は広大な敷地を持ち、中軸線上に霊宮・三清の順に祠殿が置かれるか、両者のいずれかが置かれる。蓋部装飾は簡素で、大棟両端に鴟尾が控え、場合によっては中央に宝珠が載る。ただ、いずれも外観から明確な道教建築の特徴が見出せるわけではない。
山中・山頂型祀廟
道教では聖地を「洞天福地」と呼ぶが、司馬承禎の『天地宮府図』に収められた洞天福地のほとんどが山に関連する土地である。五斗米道の活動拠点である24カ所の「治」が山に置かれていたのと同様に、その後の道教施設も山に置かれるものが多い。山腹の急な斜面を這い上がるようにして配置されている場合もあり、三清が最上階に設置されるなど三十六天の観念を反映するものもある。ほか、洞窟の入り口に祠殿が設けられる場合や、山頂に設けられる場合もある。
経典
道教の経典を集めた『道蔵』は、三洞四輔十二類の分類で分けられている。三洞とは、洞真経・洞玄経・洞神経の三つで、それぞれが本文・神符・玉訣・霊図・譜録・戒律・威儀・方法・衆術・記伝・讃頌・表奏の十二類に分かれている。三洞は上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)とも呼ばれ、4世紀から5世紀に茅山派を中心に制作された。四輔はこれより遅れて5世紀から6世紀に作られ、太平道や天師道、道家や神仙家などの書物を補って成立した。ただ、三洞四輔が厳格に分類通りに分けられているわけではなく、また『墨子』や『韓非子』など道教以外の書物も一部含まれている。
洞真経(上清経)
三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、任城国任城県の女性の魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人の許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという。精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く。
洞玄経(霊宝経)
霊宝経の起源は禹の時代に遡るとされ、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」と、その呪術にあるとされる。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備された。その内容は仏教、特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である。
洞神経(三皇経)
三皇経という名は、天皇・地皇・人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという。
四輔
「四輔」は太玄・太平・太清・正一の四部からなる。太玄・太平・太清は、洞真・洞玄・洞神の教義を補足するもので、正一は三洞・三輔の内容を全て含む。太玄部は『老子道徳経』およびこれに関係する経典類、太平部は『太平経』の残存しているもの、太清部は金丹に関係した文献、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である。
三教の関係
道教・儒教・仏教の間には、様々な相互交渉と融合が起こった。仏教と道教の融合の事例としては、天界説・「劫」の観念・地獄・止観・禅の思想・大乗思想・空思想・仏性思想などがある。儒教と道教の融合の事例は倫理思想の面によく現れており、『太平経』や『抱朴子』など儒教の倫理道徳が基調となっている経典は多い。
仏教と道教
仏教が中国に伝来した際、中国に固有に存在した道家思想・神仙思想を媒介として中国の社会・文化の中に入っていった。老子がインドに入って仏となり作ったのが仏教とする「老子化胡説」や、老子・孔子・顔淵は仏が中国の人々を教化するために派遣した仏弟子であるとする「三聖派遣説」などが唱えられ、道教・仏教は互いの優位性を争うこととなった。
元徽年間、道士の顧歓が「夷夏論」を著すと、「夷夏論争」と呼ばれる仏教と道教の論争が始まった。顧歓は、仏教と道教はその根源的な真理は一致しており、どちらも人々の本性を完成させるという目的は同じであるが、そのための教化方法が異なり、中国においては中国の風俗に合った道教がふさわしいと述べた。
仏教の要素は道教にも取り入れられるようになったが、特に霊宝経の仏教需要は顕著であり、仏教の宇宙論・大乗思想・因果応報思想・戒律などが霊宝経の中に取り入れられている。
儒教と道教
儒教で最も重んじられる道徳である「孝」も道教に取り入られており、祖先祭祀を行うことによって、亡き先祖を思う心が天を感動させ、冥界の魂に報いが及ぶと考えられていた。陸修静が整備した儀礼である「霊宝斎」は、父母の重恩を思う気持ちが斎の根本であることを強調し、家の祖先を供養するための斎や国家の安寧を祈願する斎を整備した。これは儒教の思想と同じように家と国家の安寧を祈願するものであり、唐代に道教が王朝に重んじられるきっかけを作った。
三教帰一の思想
こうして三教の間の交渉・融合が進むにつれて、儒・仏・道の一致を主張する説も多く提出されるようになってきた。特に宋代以後になると、自己修養を目的に内丹に関心を持つ人が増え、その一致が説かれるようになった。道教の側からこの議論を行ったのが『悟真篇』で、この書では「性」に重きを置く仏教と「命」に重きを置く道教は不可分で、かつ儒教経典である『論語』や『易』を引用しながら孔子が性命の奥義に通じていたと述べられている。
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