2021/05/20

大乗仏教(1)

 出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

 

1. 大乗仏教の成立

西暦紀元の前後、西方でイエスの愛の宗教が生まれたのと同じ頃、インドにおいては慈悲を強調する大乗仏教が生まれた。

 

当時、部派仏教は学問的、哲学的な傾斜を強めていた。このような傾向に対抗して、仏塔(ストゥーパ)を崇拝する在家信者の間に熱烈な宗教運動が起こった。彼らは、ブッダへの信仰による救済を希求した。

 

ブッダの神秘化、神格化は原始仏教のごく早い時期に始まったと考えられる。しかし、自力主義を主とする原始仏教では、救済者の観念は明瞭ではない。大乗仏教では、如来、菩薩が明確に大慈悲心をもつ救済者として現れてくる。

如来は、元来「修行完成者」というほどの意味で、ブッダの多くある異名の一つであった。しかし、大乗仏教では、「衆生を救済するため、真理にしたがってこの世に到来した者」と解された。

 

原始仏教以来の過去仏の観念が拡大され、無数の仏国土に無数の仏(如来)が存在すると考えられるにいたる。その中でも、とりわけ多くの信仰を集めたのは阿弥陀仏、薬師如来などである。

 

菩薩(bodhisattva)は、古くは「悟りが確定している者」の意味で、悟りを得る(成道)前のブッダに対して使われた。しかし、大乗仏教では「悟りを求める者」と解釈され、大乗の信者が自分たちを指して用いるようになる。

 

そして、自分自身は輪廻の苦しみの世界から解脱し涅槃に到達しようとすればできるのに、他の多くの苦しむものを見て、あえて輪廻の世界にとどまり、かれらに対して慈しみ憐れむこころを持って救済につとめる「利他行」を行う者、という菩薩の理想像が形成された。

 

超人化され、信仰の対象とされた菩薩には、弥勒菩薩、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩などがある。

 

2. 六波羅蜜(ろくはらみつ)

利他行を重んずる大乗では、それまでとは異なる修行法が説かれた。八正道は、自分ひとりの安らぎを目指すものとして低くみなされた。それに対し、利他行を含む六波羅蜜をより優れたものとして尊重した。

 

 六波羅蜜とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つの徳目を完成させることである。

波羅蜜(pāramitā)は、到彼岸と訳されることもある。これはpāramitāpāram(彼岸)+ita(到達した)と分解し、波羅蜜の修行によって、彼岸に到達できると解釈するからである。伝統的には、そのように解釈されてきた。しかし、本来はpāramin+tā(最上であること、完成されていること)の意味である。最近では「完成」と訳される。六つの徳目を完成させることをいう。

 

 「布施」とは、与えること施すことで、財物を施すこと(財施)、教えを施すこと(法施)、安心を与えること(無畏施)の三種がある。

 「持戒」とは戒律を守ることである。

また戒めも五戒に代えて、十の戒め(十善戒)が説かれた。身体的な行いについては、不殺生、不偸盗、不邪淫の三、言葉の行いについては、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語(意味のない無益なおしゃべりをしないこと)の四、心の行いについては、無貪(執着し、貪らないこと)、無瞋(怒りに苦しまないこと)、正見の三の合わせて十である。


 「忍辱」とは、苦難や迫害に堪え忍ぶことである。

 「精進」とは、実践にたゆまず努力すること。

 「禅定」は、瞑想による精神統一を意味する 。「禅」は、dhyāna あるいは jhāna の音訳である。一切を空・無相・無願と観ずる三種の禅定(三三昧)が基本とされる。

 「智慧」は、真理を見極め悟ることである。

菩薩としての誓願と自覚を持って、これら六つの徳目の完成を目指して行すれば、誰でも仏になることができるとした。

 

3. 般若経

六波羅蜜のうち、最も尊重されるのが悟りにいたる「智慧の完成」(智慧波羅蜜)である。智慧(prajñā)は、音写して「般若(はんにゃ)」ともいわれる。この智慧波羅蜜、すなわち般若波羅蜜を称揚する一群の経典が、般若経典である。大乗(mahāyāna)ということばは、般若経典において、初めて用いられた。

 

般若経典の核をなす思想は、の思想である。般若経典の中で、最も広く親しまれているのは『般若心経』であろう。その中に現れる有名な文句「色即是空、空即是色」は、色形あるものの本質は空であり、空を本質とするものが色形あるものとして現れることを説く。なぜ、彼らはそのようなことを説くのか。

 

般若経典の尊重する智慧とは、ブッダの智慧である。ブッダは、あらゆるものに対する無執着を説いた。あらゆるもののうちにはブッダの教え、すなわち縁起、四諦・八正道、無常・苦・無我、あるいは理想とされる涅槃などの教えも含まれる。したがって、これらの教えにすら心をとめないこと、すなわち「心を空性(空を本質とすること)に落ちつけること」が理想とされる。

そして、あらゆるものが「」であり、「差別する様相がないもの」であり、「願い求めるべきものではないこと」を観ずる禅定こそが解脱へ至る道であるとされた(空・無相・無願の三解脱門

また、大乗仏教における理想的な行為である菩薩の利他行は、この境地において初めて成り立つと考えられた。

 

4. 維摩経

般若経典の空の思想を文学的にあらわしたのが『維摩経』である。

主人公の維摩詰(ゆいまきつ、Vimalakrti)は在家信者で、出家の仏弟子や菩薩を次々に論破する。小乗の出家主義に対する大乗の在家主義の優位が示される。

 

6章には、世界を空として見ることが菩薩の利他行の根拠となることが鮮やかに説かれる。


 「菩薩は、すべての生きもの(衆生)をどのように見るか」という問いに、維摩は、手品師が作りだした人、かげろうの水、水の泡、中の空虚な芭蕉の茎、大空の鳥の跡形などの比喩を用いて

「菩薩は、すべての生きもの(衆生)の本質が空で、真実には固定的な本性をもたないもの(無我)であること知って見る」

と答える。


 「そのような見方をする菩薩に、なぜすべての生きものに対する大きな慈悲心が起こるのか」という問いに対して、「あらゆる執着、煩悩、とらわれがないから、寂静な、無熱の、妨げられることのない、大悲の、慈しみの心が生まれる」と答える。


また、第 8章には、生・滅、浄・不浄、善・悪など対立矛盾するものが真実には空であって、異なるものではないとする教え(不二の法門)が説かれる。
この教えに入ることが悟りであるとされるのであるが、「不二の教えに入るとはどういうことか」という問いに、諸々の菩薩はさまざまに答える。


これに対して、維摩は沈黙をもって答える。言葉によって説くことが、すでに本来空なるものに分別をくわえ区別・対立を設けている。悟りの智慧が、分別、言葉を超越したものであることを説く。

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