日本における道教
ü 諸子百家
ü 儒家、道家
ü 法家
ü 墨家
ü 名家
ü 陰陽家
ü 縦横家
ü 雑家
ü 農家
ü 小説家
ü 兵家
表・話・編・歴
各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。
これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だが、それらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。
一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて、政務の中核を担う国家組織にまで発展した。
この意味で日本において、本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。しかし、例えば仏教などに融合しつつ体現された道教は存在したとする研究、または確立された道教の必要性も唱えられた。
日本では大淵忍爾・吉岡義豊・福井康順・窪徳忠・福永光司・宮川尚志・澤田瑞穂等が道教研究をリードしていた。
陰陽道
道教の廃止と共に、それに代わって陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(すなわち北極星という意味であるという説)。
五行思想
日本における陰陽道の中核をなす思想である。元々は暦法や易は易経に起源を持ち、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であった。占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。ここには後世に伝わる占術としての軽さは皆無であり、常に研鑽も求められるものであったが、日本ではすでに確立されたツールとしての利用のみが伝わった。現在でも、街頭で易者を見掛けるなどして根付いている。中には、それを大道芸にした六魔と言う易者の芸人がいる。
修験道
古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。
神仙思想
主に不老不死を得るための仙術の体得と、その手法の研究が流行した。やがて、これらの思想が民衆運動や政争に利用されたり、仙薬として水銀を扱い害をなすなどの弊害を産んだ。
風水
風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本や台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。
風水では、天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは、儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ円になっている。
陰陽道の思想は沖縄の首里城、平城京・平安京・長岡京など、古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。
庚申信仰
日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。
辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。
日本の道観(道教寺院)
日本国内の道観は、埼玉県坂戸市の聖天宮や横浜媽祖廟、各地の関帝廟(黄檗宗の寺院の中にある事例もある)、北海道釧路市の台湾鳳凰山指玄堂釧路分院(済公)などがある。
日本の道教の宗教団体
2013年(平成25年)に福岡県東峰村に創立した一般財団法人日本タオイズム協会のほか、その以前からある団体としては日本道観、道士を育ている学校の道家道学院や道教の研究発表会をする日本道教学会と言う学会や日本道教協会などがある。
その他の国、地域における道教
朝鮮、越南(ベトナム)など、漢字文化圏の国々にも伝わっている。特に台湾では、現在も生活の中に息づいている。(「道教の神々」窪 徳忠、講談社学術文庫[要ページ番号])なお、民間信仰と道教の区別は難しい。
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「小林正美氏の説」について
「道教」の定義
早稲田大学において初期の道教と中国仏教を精力的かつ厳密な学術的手法によって研究してきた小林正美名誉教授は、初期道教の形成史について独自の見解を唱えてきた。小林教授によると、中国における「三教」の一つとしての「道教」は、劉宋の天師道改革派に始まり、それ以前の道家思想や葛洪『抱朴子』の神仙思想、後漢の「五斗米道」や「太平道」、そして東晋期の霊宝派(葛氏道)や上清派、また民間信仰は、「道教」と呼ぶことはできないという。何故なら、中国において歴史的に実在した「三教」には
(1)教祖と
(2)教祖の教えを記した経典(教)
の二つが構成要素として必要であり、劉宋期の天師道改革派以前の「いわゆる道教とされるもの」は、この二つの要件を満たしていないからである。
また小林教授の立場(すなわち思想史的立場)とは、「当時の人々が道教と呼んだもの」が歴史的に実在した「三教」の一つとしての「道教」(=「歴史的用語」)であり、それ以外の「茅山道教」や「民間道教」などは現代の学者が便宜的に付けた用語(=「現代的用語」)であって、歴史的に実在した道教ではないというものである。
天師道改革派と唐代の天師道
仏教に対抗するため、劉宋の天師道改革派は擬人化・神格化された「道」を老子(太上老君)および無極大道と同一視して
(1)教主に据え、その教えを
(2)三十六部尊経としてまとめた。
この場合、「道教」とは「道(老子)の教え」という意味になる。このため、「道教」の難解な経典を理解できるのは知識人の貴族層に限られ、民衆は「道教」を理解するのが困難であった。つまり、「道教」は当初は貴族である知識人のための教えであって、民衆の間に「道教」は広まらなかったのである。そして風水などは否定されていた。
さらに、天師道の経典と道士の授法のカリキュラムおよび位階制度を精密に研究した小林教授は、「上清派の伝承」と考えられていたものが実際には天師道の経典に取り込まれた「上清経の伝承」であったことを明らかにし、唐代において上清派は存在せず、天師道しか存在しなかったという説を提唱した。
「小林説」の評価
小林教授の説は、それまで学会の常識とされていた「通説」を真っ向から否定する強烈な説であったため、日本においては、有力な歴史学者や同分野の権威的な研究者から痛烈に批判され、長らく無視されてきた。しかし、2010年代以降、中国の有力な学者や日本の若手研究者から小林教授の説は高く評価されてきている。
0 件のコメント:
コメントを投稿