前秦の華北統一
同じ頃、後趙の支配力が及ばなくなった陝西地方では、氐族の苻洪が秦王を名乗り、息子の苻健が長安に入って秦皇帝に即位した。彼らの建てた国は、前秦と呼ばれる。
一連の混乱に乗じて、東晋の将軍桓温は成漢を滅亡させて四川を東晋の版図に組み入れ、354年に北伐を行い前秦を攻めるが撃退された。桓温は一旦兵を引き上げるが、356年に再び北伐を行い、洛陽を占領した。
前燕では、慕容恪の指揮の下、後趙や段部などの残党を平定し、河南にもその勢力を拡大していた。360年に慕容儁が死去すると息子の慕容暐が継いだが、若年であったため叔父の慕容恪が実質的な指導者となった。慕容恪は前燕の勢力をさらに拡大、364年8月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、前燕は全盛期を迎えた。
360年中頃には前燕が華北の東を前秦が西を領有して、前趙・後趙の時と同じように東西での睨み合いの状態となった。
苻健の後を継いだ苻生は横暴で周囲の不満を買い、従弟の苻堅によるクーデターで殺害された。苻堅は優れた人物で、漢人の王猛を登用してその献言に従い、370年には慕容恪の病死により揺らいでいた前燕を滅ぼし、華北最大の勢力となった。
苻堅は、371年には甘粛に拠っていた仇池を、376年には山西北部に割拠する鮮卑拓跋部の代と前涼を滅ぼして華北を統一した。更に朝鮮半島の高句麗と新羅を朝貢国とし、勢力は大きく奮った。
淝水の戦い
更に苻堅は、中国の統一を目指して東晋遠征を計画する。王猛は375年に死去しており、臨終の際に東晋への遠征は止めるよう遺言した。しかし苻堅はこれを聞き入れず、遠征を決行する。
383年、苻堅は100万と号する親征軍を南下させた。これに対する東晋軍は、謝安を大都督とした8万で迎え撃った。両軍は、淝水(現在の安徽省寿県)を挟んで対峙する。前秦軍は一旦、兵を後退させ、東晋軍が河を渡った所で攻撃しようとした。しかし後退させた事で陣形が崩れ、そこを東晋軍に突かれて大混乱に陥り、前秦軍は大敗した(淝水の戦い)。
前秦軍は様々な民族の混成であり、先の戦いで東晋から捕虜となっていた将軍なども起用されていた。苻堅は残軍を纏めて帰還するが、これを見た配下の諸部族は反旗を翻した。旧前燕の領土には後燕が、山西では代と西燕、陝西には後秦・西秦が、甘粛には後涼が建国された。更に、その後の混乱から陝西に夏、甘粛に北涼・南涼・西涼、山東に南燕などが乱立し、華北は再び騒乱状態となった。
これらの国々が乱立する中で、前燕の慕容儁の弟の慕容垂によって建てられた後燕と、羌の族長姚萇によって建てられた後秦が次第に強大となる。394年に後燕は西燕を、同年に後秦は前秦をそれぞれ滅ぼして領土を拡大し、両者の睨み合いとなるかと見えた。しかし、代から改称した鮮卑拓跋部による北魏と、後秦から独立して建国した匈奴の赫連勃勃の夏が、次第に強大となる。
後燕は、395年に北魏に対して遠征を行ったが大敗した(参合陂の戦い)。翌年に慕容垂が死去し、398年には慕容垂の弟の慕容徳が離反して南燕を建て、更には北魏に領土の大半を奪われるなど、後燕は一気に頽勢となった。407年、漢人の馮跋が高句麗の王族出身の慕容雲(元の名は高雲)を擁立したことで、後燕は滅亡する。馮跋の政権は北燕と史称されるが、保持した領地は遼東と遼西のみの狭い地域である。
後秦の躍進と夏の独立
後秦は、400年前後の最盛期の姚興の代に周辺国(西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀)を一時的に従えた。しかし402年に北魏に大敗し(柴壁の戦い)、また西秦や後涼との抗争を続けていた407年に、配下の赫連勃勃が自立して夏を建て、騎馬を活かした攻撃を仕掛けて後秦の国力を疲弊させた。最終的に後秦は417年に東晋の劉裕(南朝宋の創始者)が率いる遠征軍により滅ぼされた。劉裕は南燕も410年に滅ぼしており、これらの軍功を以って420年に東晋から禅譲を受けて宋を建てた。
417年、劉裕が長安(後秦の首都)から東晋に引き上げると、赫連勃勃は長安を奪取し、夏は華北において北魏と並び立った。
北魏の華北統一
赫連勃勃は425年に死去し、後継である子の赫連昌は427年に北魏によって夏の首都・統万城を落とされ、翌年に捕虜となる。次に即位した弟の赫連定も北魏に大敗し、431年に西秦を滅ぼすも吐谷渾によって北魏に送還され、処刑された。北魏は436年に北燕を滅ぼし、439年には甘粛地方を統一していた北涼を滅ぼして華北を統一した。これを以って五胡十六国時代は終わり、南北朝時代の始まりとなる。
宗教
五胡十六国時代は、それ以前の中国における宗教の概念を一変させた時代であると言える。その最大の特徴は、外来宗教である仏教の受容の仕方に現れている。五胡の君主の大多数は非漢民族(異民族)ではあったが、儒教を尊崇する君主もあれば、老荘思想を志向する者も見られた。そんな中で当時の社会不安が高まり、戦乱が打ち続く華北において飛躍的に拡がったのは、仏教であった。
魏晋の社会では、仏教は依然として外来の宗教であったが、五胡の君主達は、自らが仏教徒となると共に、仏教による民衆教化を図った。
五胡の君主達は高僧を霊異ある者として遇し、政治顧問や軍師として用いる例も多かった。よく知られる例は、後趙の石勒と石虎に崇拝された仏図澄である。仏図澄の門下は、釈道安や竺僧朗らの漢民族の高僧を輩出し、仏教をより広い地域に広めた。
前秦の苻堅は、襄陽の道安を武力によって獲得し、さらに道安の推薦で亀茲で名高かった鳩摩羅什を長安に迎えようとした。しかし亀茲から迎え入れる最中に前秦は実質的に滅び、鳩摩羅什は後涼に留まることになった。最終的には後秦の姚興が鳩摩羅什を長安に迎え入れ、盛んに訳経事業を行った。後秦は、中国において仏教の国家支援をした最初の国である。
泰山に入った僧朗には、東晋の孝武帝を含む6人の君主が施物を献じて、自らの国に迎えようとした。
出典 Wikipedia
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