2021/05/11

セクストス・エンペイリコス

セクストス・エンペイリコス(英:Sextus Empiricus2世紀から3世紀ごろ)は、アレクサンドリア、ローマ、アテネなど様々な土地に住んだといわれている医学者、哲学者である。彼の哲学的著作は、古代ギリシャ・古代ローマの懐疑論として、ほぼ完全な形で現存している。

 

医学的な著作については、伝承によれば彼自身の名にちなんだ「経験主義'empiric'学派(アスクレピアデス Asclepiadesの項を参照)に属していたとされる。しかしながら、著作中において少なくとも二度、自分自身を「方法主義'methodic'学派に近いところに置いており、またこれは彼の哲学からもうかがい知られることである。

 

思想

セクストスは、あらゆる信念に対する判断を停止するべきだ、すなわちある信念について真であるとか偽であると判断することを控えるべきだと主張する。この立場は、ピュロン的懐疑論として知られている。セクストスによれば、この立場はアカデメイア的懐疑論、すなわち知識そのものを否定する立場とは一線を画すものである。

 

セクストスは知識そのものの可能性を否定することはしない。真なる信念としてなにかを知ることは不可能だとする、アカデメイア的懐疑論の立場をセクストスは批判するのである。その代わりにセクストスは、信念を放棄すること、すなわち何かを知ることができるかどうかという判断を停止することを提案する。判断停止することによってのみ、我々はアタラクシア(心の平安)を得ることができるのである。セクストスは、全ての事柄について判断停止をすることも不可能ではないと考えた。なぜなら、我々はいかなる信念をも用いず、習慣に従って生きることもできるからである。

 

セクストスは、我々の経験(例えば心情や感覚)に関する主張を肯定することはできると考える。すなわち、私はこう感じるとかこういうものを知覚する、という主張Xについて、「Xであるように思われる」と言うことは可能である、と言うのである。しかしながら、このように言うことはいかなる客観的知識も外在的実在も含意しない、と指摘する。というのは、私は「私が味わった蜂蜜は、私にとって甘い」ということを知っているかもしれないが、これは主観的判断に過ぎず、蜂蜜そのものについてなにか知っているということにはならないからである。

 

以上のように、セクストス哲学を解釈する注釈家としてマイルス・バーニェット(Myles Burnyeat)やジョナサン・バーンズ(Jonathan Barnes)がいる。

 

それに対してマイケル・フレーデ(Michael Frede)は、異なった解釈を提示している。彼によれば、理性や哲学や思弁によって辿り着いたのでない信念であれば、セクストスは認めるとされる。例えば、内容にかかわらず、懐疑論者の共同体において信念とされたものなどである。この解釈をとるならば、懐疑論者は神を信じたり信じなかったり、美徳は善であると信じたりするだろうが、美徳が「本性的に」善であるからそう信じるわけではないのである。

 

経験主義者セクストス

ピュロン主義者であり医者でもあったセクストス・エンペイリコス(エンペイリコスとは、名前ではなく経験主義者というあだ名である)は、ピュロン主義とその他の学派との相違を次のように伝えている。

 

人々が何か物事を探究する場合に、結果としてありそうな事態は、探究しているものを発見するか、あるいは発見を拒否して把握不可能であることに同意するか、あるいは探究を継続するかのいずれかである。多分このゆえにまた、哲学において探究される事柄についても、真実を発見したと主張した人々もいれば、真実は把握できないと表明した人々もおり、またほかに、さらに探究を続ける人々もいるのであろう。

 

そして、このうち真実を発見したと考えるのは、アリストテレス学派、エピクロス学派、ストア派、その他の人々のように、固有の意味でドグマティストと呼ばれている人たちであり、また、把握不可能であると表明したのは、クレイトマコスやカルネアデスの一派、およびその他のアカデメイア派であり、そして探究を続けるのは懐疑派である。

 

セクストス『ピュロン主義哲学の概要』、金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.6.

 

ここでセクストスは、ピュロン主義を独断論および不可知論と対立するものとして提示している。ただし、このような分類はやや割り切り過ぎなのではないかという見解もあり、特に初期のアカデメイア派を不可知論に属せしめてよいのかについては、今日では疑問が呈されている。セクストスによれば、懐疑主義の目的は、「思いなしに関わる物事における無動揺[平静]と、不可避的な物事における節度ある情態である」。

 

というのも、懐疑主義者は元々諸々の表象を判定して、そのいずれが真であり、いずれが偽であるかを把握し、その結果として無動揺[平静]に到達することを目指して哲学を始めたのであるが、結局、力の拮抗した反目の中に陥り、これに判定を下すことができないために、判定を保留したのである。ところが判断を保留してみると、偶然それに続いて彼を訪れたのは、思いなされる事柄における無動揺[平静]であった。

セクストス『ピュロン主義哲学の概要』、金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.20.

 

もっとも、あらゆる事柄について判断を留保するのではなく、表象(感覚へのそのままの現れ)として不可避的に受け取っている事態については、これを承認する。つまりセクストスの説明によれば、知識が何らかの不明瞭な物事に関係しているという意味でのドグマを持たないという意味で、ドグマを持たないのである。同様に、ピュロン主義者は、「万物は虚偽である」とか「何事も真理ではない」とは言わずに「私にとっては、今のところ何事も把握不可能であるように思われる」とか「私は今のところ、このことを肯定もしないし否定もしない」という慎重な言い回しを用いる。

 

このようなピュロン主義は、セクストスが伝えているところによれば、新旧異説を合わせて全部で17の議論の仕方を有している。伝統的な10の方法は、次の通りである。

 

動物相互の違いにもとづく方式:例えば犬と魚とバッタは異なるように物を見ているかもしれない。

人間同士の相違にもとづく方式:例えば人によって、身体構造が異なるということ。

感覚器官の異なる構造にもとづく方式:例えば絵は視覚によれば奥行きがあるように見えるが、触覚によれば平面であること。

情況にもとづく方式:例えば一般人と神がかりに合っている人は、異なる表象を持つこと。

置かれ方と隔たり方と場所にもとづく方式:例えば、船は遠くから見ればゆっくり動いているように見えるが、近くから見れば速く動いているように見えること。

混入にもとづく方式:(注:この箇所は現代の知識から見ると、かなり分かりにくい内容になっている。例えば、身体は水中では軽くなり空気中では重くなると言われているが、これはいわゆる重量が周辺の物質との混合によって変化していると考えられていたものと解される)。

事物の量と調合にもとづく方式:例えば酒を飲み過ぎると害になるが、適度に飲めば健康になるということ。

相対性にもとづく方式:すなわち、物事は主体に応じて異なるということ。

頻度にもとづく方式:例えば彗星はたまにしか現れないので驚かれるが、彗星が頻繁に現れるようになれば驚かれなくなるであろうこと。

様々な説の対置による方式:習慣、法律、神話および学説がばらばらであること。

出典 Wikipedia

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