日本での法華経の流布
『法華義疏』
『平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年)
平家納経
読経用の折り本。江戸期の両点本(経文の右側にひらがなで音読みを、左側にカタカナと返り点で漢文訓読を示す)。
日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが窺える。
天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。
なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。
606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。
「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)
615年には聖徳太子が法華経の注釈書『法華義疏』を著したとされる (「三経義疏」参照)。聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。
平安時代末期以降に成立した『今昔物語集』では、法華経の利益が多く描かれている。
鎌倉時代~戦国時代
貴族たちは高価な写本を入手し、漢文の読める文官を従えていたが、貴族の衰退と東国武士の台頭とともに法華経の権威は低下した。鎌倉幕府は禅宗を重んじ、また浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのちに、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出し、専修念仏を広めた。浄土教と法華経の戦いは時として激しい衝突に至った(法華一揆、安土問答)。
法華経信仰の復興を目指したのが日蓮だった。日蓮は、南無阿弥陀仏に対抗すべく「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。
また他の鎌倉新仏教においても、法華経は重要な役割を果たしていた。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は、後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。
曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。
近世
近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて、戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。
江戸期における大名家菩提寺も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、また紀伊徳川家や加藤清正らによって元よりあった池上本門寺への寄進改築も進んだ。これら大名による諸宗派寺社寄進には、軍役奉仕である参勤交代や天下普請といった、江戸幕府からの奉仕負担を少しでも大目に見てもらおうという目的と、このような菩提寺はいざ国外からの有事軍役の際に、自藩の江戸藩邸屋敷以外の砦としてもの利用も想定するためである。現にこういった寺社は、幕末の動乱の際に砦として活用された(上野戦争における加賀藩邸および寛永寺)。
上記の理由以外に、特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され、勧んで信奉するものがこぞって多くなった。
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