出典http://ozawa-katsuhiko.work/
「仏」たちの特質
如来たち
そうして膨大な数となった「仏」たちを少し見てみましょう。
まず「仏」のクラスからですが、有名なのが「念仏宗」各派の本尊である「阿弥陀様」でしょう。この仏様は自分に帰依するもの、つまり念仏を唱える人々を自分の領土たる「西方浄土」に救い取る仏様です。ちなみに仏様は、自分の「国」を持っています。この仏様は今紹介したように、本来「念仏」を唱えることで「仏国へ往生」を求める人々の本尊という性格を持っており、病気回復などのお願いをする仏様ではありません。鎌倉の大仏様が、この「阿弥陀様」です。
一方、「病気回復」その他「災厄の除去」ということなら「薬師如来」がつかさどっているのであって、こちらは「現世利益」的な性格を持っています。この仏様は、古い像は釈迦像と同じ姿ですが、一般には「薬壺」を持っていることが多いのですぐわかります。
そして「哲学的」なのが「大日如来」で、この仏様は「宇宙の摂理」そのものを表している、とされます。これは民間信仰の「太陽信仰」に起源を持つと考えられ「大日」という名前がそれを表現していますが、やがて深遠な哲学的世界観の中心となり、世界を「金剛世界」と「胎蔵世界」の二つに考える「曼陀羅」の世界観に合わせ、この仏様は二つの姿を持って描かれてきます。この原形になるのが「毘盧遮仏(びるしゃなぶつ)」で、奈良の大仏様がこれです。
ここでは「大日如来が本体」なのであって、お釈迦様というのはその「現世化」なのだ、と説明します。この「大日如来」は「密教」の本尊になります。
こんな具合に、もう「仏様」の段階で「種類」が違うのですが、一般の人々にとってはこんなことはどうでもいいことで、「仏様は仏様」なのであってそこに違いなどなく、どの仏様も大事に思われねばならない、といった感情になっているでしょう。ましてこの他にたくさんいる「仏様」など名前も知らない、というのが普通のようです。
菩薩たち
同様のことは「第二クラス」の「菩薩」のところにもあり、一番有名なのが「観音様」ですが、この観音様自体「十一面観音」「千手観音」「如意輪観音」「馬頭観音」「不空羂索(ふくうけんじゃく)観音」「准牴(じゅんてい)観音」などと「変身」してしまい、仕方なく元の観音様を「聖(正)観音」などと呼ばなくてはならない始末になっています。
「十一面」は十一の威力を表し、「千手」は正しくは「千手千眼観自在菩薩」といい「千の手」に「眼」をもって衆生を見ており、慈悲の心でお救いくださる、というものでした。「馬頭」は観音様には珍しく「憤怒」の顔を持ち、これは「人間の煩悩、その現れとしての悪鬼・魔性」を打ち砕く、と説明されます。
「如意輪」は、物心両方にわたって「利益」をもたらしてくれるという有り難い姿で、「不空羂索」は空をただよう衆生を「羂索(つまり、綱のことです)」で救ってくださるということです。「准牴」は「准牴仏母」ともいい、「諸仏の母」ということになり、そんなわけでこの仏様は「仏」の部に入れるべきともいわれていますが、普通には「菩薩部」に入れられています。
しかし、以上のようなことを一般の人々は気にしません。こんなことは知らなくてもいいのです。「観音様」なのだから、要するに「救ってくださる」ということで十分だ、というのがほとんどの日本人の意識でしょう。そして実際、私たちにとってはそれでいいのであって、こんな「類別」にむしろ嫌気を感じてしまうでしょう。
こうしたことは、信仰の問題とは全く遊離した問題となっているのです。ゼウスやアテネ、アポロンなどにそれぞれの神格をしっかり意識して、神々を見て祭っていたギリシャ人とはもう「全く意識が違う」のです。これはもちろん「いい悪い」の問題ではなく、「神」というものをどのようなものとして意識していたかという「神意識の問題」「民族意識の問題」なのです。
有名な観音様をもう少し紹介しておきますと、「文殊の知恵」で有名な「文殊菩薩」がいます。実は彼は「実在の人物」だったようで釈迦の弟子だったのですが、知恵第一といわれ、死後、伝説的人物となってついには「菩薩」とまで信じられているわけです。もちろん「知恵の菩薩」となっています。通常「普賢菩薩」とペアを組み、普賢の方が「行ないし菩提心」を表して「白象」に乗っており、文殊の方は「獅子」に乗っています。また奈良にいくと必ず見学する「月光菩薩」「日光菩薩」も有名になっています。
しかし信仰的には「地蔵菩薩」と「弥勒菩薩」が一番重要でしょう。地蔵菩薩は仏教教理的には、その名前が表しているように「大地があらゆるものを蔵し、それを育てるという徳」を表していますが、一般的にはお釈迦様から弥勒仏の出現までの56億7千万年の間を受け持って、六道(輪廻の説によると、この世界は六つの世界で構成され、天、人間、阿修羅、動物、餓鬼、地獄の世界からなっているとされ、それを六道といいます)にある衆生を見守っている菩薩と信じられ、ここから「六道地蔵」として六体並んでいる姿が一般に見られるようになっているわけです。とりわけ「地獄」での救いが期待されました。
そして、もう一つが「弥勒信仰」ですが、これは今見ましたように、「釈迦以来56億7千万年後に出現する仏」とされ、釈迦以来の仏たちによる救済に漏れたすべての衆生を救済する仏とされました。仏になることは約束された「未来仏」ですので、しばしば「仏」として表象されることもあります。
こんな具合に、信仰の上では「現世での救済の祈り」という性格の強い「観音信仰」、死後での六道のさまよいの中での救済、とりわけ地獄での救済願望としての「地蔵信仰」、そして「未来での救済」が願望されたところでの「弥勒信仰」といったものが、一般庶民の信仰の在り方であったといえるでしょう。
しかし、こうなっても「それぞれの仏そのものの仏格の意識」というものはほとんど生じていない、というのが正直なところでしょう。というのも、もう一つ良く知られた信仰に「不動信仰」があり、現在でも「お不動様」と呼ばれて親しまれている信仰があるのですが、この「不動」は「明王部」ですから、さらに下のクラスになる筈なのです。しかしそんなことは全然知られておりません。
また、この不動様の前身がかつての民間信仰の神「シバ神」であることも意識されていないのが普通です。異教の神ですから位が低く始めは「如来の使者」でしかなかったのですが、後には「大日如来の分身ないし変身の姿」の如くに信じられ、「貴族の守護神」とされ、さらにまた「修行者の守護神」としても一般化し、さらには庶民にまで広まったと考えられているものです。しかし一般庶民にとってはそんなことはどうでもよく、ようするに「悪」を退治して自分達を守ってくれる「有り難い仏様」ということでの信仰でしかないでしょう。
こんな具合に「仏ないし仏像信仰」は展開しているのですが、ここにある信仰形態は、種類・姿・形は異なっていても「皆同じ」なのであり、ただ「仏」というものに対する信仰という形になっていると言えます。
少なくとも、ギリシャにおけるがごとく「女神アルテミスは敬愛するけれど、女神アフロディテは尊敬しないし礼拝もしない」(エウリピデス『ヒッポリュトス』)などというような類別意識はないのでした。こうした意味では、つまり「神・仏」にも類別を見ず、「神・仏」としてのみ意識するということで、「神も仏も一つ」というような扱いになっていると言えます。
これが日本人の「宗教感覚」なのであり、それは各章でみてきたように、日本人にとっては「神々」も「仏たち」も、要するに「繁栄をもたらし」「成功をもたらし」「災厄を除去し」「平安をもたらす」そうした力、ようするに自然の中に生きている人間に対しての「根源としての自然的力」の形象化であったということで、これが日本の神々や仏たちの「正体」だったというわけです。
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