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前期 成立と再興
395年、肥大化した領土の統治に限界を感じたローマ帝国は、最終的な東西の分割統治を開始した。
旧都「ローマ」を所領する「西側」は、その後100年ももたない。他方、「東側」はローマ帝国の政治・伝統・文化を継承し、長きにわたってキリスト教(正教会)国として地中海世界に君臨した。名実相伴ったのかは別として、東ローマは1453年の滅亡まで、ローマの名を誇るに至ったのである。
社会背景
古代ギリシア・ローマ社会では、戦・名誉・自治が密接に絡み合った価値観の元、ポリス社会が形成されていた(古代ローマ帝国は、数々のポリスとの同盟・契約によって成り立つ帝国でもあった)。政治的発言権を持つ市民は、己の都市を自ら仲間と共に防衛し、管理することに誇りを抱いていたのである。
しかし、古代ローマ帝国が経験した3世紀の危機や相次ぐ蛮族の帝国への侵入により、この名誉と自治の価値観は廃れていった。
ü 共同体意識を保持するための設備(たとえば公共浴場や競技場)の維持が困難となったこと
ü 農村や郊外から多くの部外者が都市に流入し、雑多で精神的に統一されていない大衆が出来上がったこと
ü これらの結果、市民は都市政治に喜びを見出すどころか疲れを感じるようになっていったこと
相次ぐ戦乱と土地の荒廃は、こうした社会の変質を招いた。それ故4世紀の末にはポリスの「自治と名誉の伝統」は、ほぼ消失した(帝都コンスタンティノポリスにおいては、競馬場とそこに集う人々の政治的発言という形で、6世紀まで続いた)。それ故、地方政治は地方議会ではなく、地元の一部有力者の手に渡っていく。
荒れていく社会と自治への責任感の喪失により、人々は心の支えを欲するようになった。そのすがる思いの行き着く先がキリストの教えであり、神と結びつく東ローマ皇帝へ服属することであった。この「皇帝の奴隷」であることに安心感を覚える風潮が、東ローマ皇帝を専制君主化していく。この時代は、その最初の段階であった。名誉を重んじ簡単には跪かなかった古代人と、この時代以降の東ローマ人の皇帝への平伏……実に対照的である。
テオドシウス朝(379年 - 457年)
395年、東ローマ帝国は静かに成立した。
当時の多くの国民は、395年を「ローマ帝国の完全な分裂」とは考えていなかったのである。事実、当時の東ローマと西ローマの交流は途絶えておらず、また東西に皇帝を立てることもディオクレティアヌス帝の時代から何度かあった。したがって、この“395年”は、古代ローマ帝国、および西ローマ帝国との明確な線引きが不可能な時代といえる。
このように特徴の少ない帝国の初期だが、別段何もなかったわけではない。東ローマ帝国を1000年以上にわたって守り続けた「テオドシウスの城壁」が完成したのも、当時ヨーロッパを席巻していたフン族のアッティラへ献金を打ち切ったのも、そして(今日のカトリックの考えである)キリスト教の三位一体説が支持されたのも、すべてはこの時代である。
帝国は、確かに誕生した。後の東ローマ帝国やヨーロッパ史、ひいてはキリスト教の価値観へ少なからず影響を及ぼしながら、産声を上げたのである。
レオ朝(457年 - 518年)
何といっても特筆すべきは「西ローマ帝国の滅亡」である。
3代(および5代)皇帝ゼノンの治世期たる476年。西ローマ側が、オドアケル率いるヘルール族の賠償金要求を断ると、オドアケルらによるローマ荒掠が始まった。オドアケルは、時の西ローマ皇帝ロムルスを退位させ、帝位のあかしを東ローマ皇帝ゼノンへ送り返した。これは東ローマ皇帝が西ローマ皇帝の位をも戴く、すなわち全ローマ帝国の皇帝となる権限を有することを意味する。オドアケル本人はゼノンの宗主権を認めたうえで、イタリア王として振る舞うというのだ。
かくして東ローマ皇帝=全ローマ皇帝の構図が成立した。しかし西ローマ皇帝が、完全に歴史から姿を消すわけではない。もっとも、その最後の西ローマ皇帝ユリウスにしても、480年には暗殺されている。
さて、改めて東西ローマ皇帝となったゼノンではあったが、彼は488年にあろうことか自らに西ローマ皇帝位を献上したオドアケルを討伐するように、東ゴート人のテオドリックに命じた。491年にゼノンはこの世を去ってしまうが、テオドリックによって493年には、オドアケルの排除に成功する。497年、東ローマ帝国はテオドリックを王として承認し、これにより現イタリア・クロアチアに当たる地域には、東ゴート王国(497年 - 553年)が成立することになった。
その後
ゼノン亡き後の東ローマ帝国は、アナスタシウス1世(在位:491年 - 518年)の下、着実に国力を向上させていった。アナトリア南東部のイサウリアの乱が鎮圧され、対ブルガール人用の国防は強化され、そのうえ破綻寸前の財政まで立て直されたのである。後世の東ローマ帝国が理想に燃えることができたのも、この皇帝の尽力による基盤あってのものだろう。
国力が回復していく一方、宗教面においては不穏な影が渦巻いていた。アナスタシウス1世とコンスタンティノポリス総主教は、単性論1寄りのキリスト教的見解を示したが、これが三位一体説2を絶対とするローマ教会に反意を抱かれる。まもなく東ローマ帝国は破門された。これは後に神聖ローマ帝国として表れる、東西教会の分裂の第一歩である。
1.
キリストは受肉(人間となって現れること)によって、その人性が神性に融合された、とする思想。ようは「キリスト=神だけど人間らしさもある」という考え。古くはギリシアの価値観であり、ここに東ローマ帝国のギリシアらしさを見ることができよう。
2.
父(YHWH)と子(イエス)と聖霊が一体となり、唯一の神となる、という考え。
フランク王国の台頭
少し戻って、西ローマ帝国が滅亡しきってすぐの481年、舞台は西ヨーロッパ。現在のベルギー辺りにいたフランク人のクロヴィス1世は、現ベルギー周辺地域、いわゆるフランドル地方を統一すると、フランク王国(481年 - 987年)を建国した。
フランク王国は486年、現フランス北部における西ローマ帝国系の残存勢力を駆逐し、これを併合。すると、東ローマ帝国と繋がりを有し、またお膝元の北フランスにおいてキリスト教徒のローマ系ガリア住民が多くいた事実から、5世紀末までにフランク王クロヴィスが東ローマ帝国の国教と同じである、キリスト教アタナシウス派に改宗した。
507年、フランク王国は西ゴート王国(現スペイン・南フランス)に対し勝利、その版図をフランス南西部、ピレネー山脈にまで拡大させた。フランスの原型成立である。翌508年、クロヴィスはパリを都とし、東ローマ帝国からはローマ帝国の名誉執政官の位を与えられ、東ローマ帝国の権威の下にフランク王の権力を正統化した。
フランク王国はその後も拡大し続け、6世紀末までには現在のフランス・ベルギー・ドイツ中西部およびアルプス山脈一帯にまで版図を広げた。旧西ローマ帝国領域に新たに出現したこの大国は、次第にイタリアや「ローマ皇帝の位」にも干渉し始め、「正統なるローマ」たる東ローマ帝国にとっての不倶戴天の敵となっていく。
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