堯(ぎょう)は、中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
『史記』「五帝本紀」によれば、嚳の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄の死後帝となった。「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った。
羲氏の羲仲と羲叔、和氏の和仲と和叔に命じ、天文を観察して暦を作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた。
堯は大洪水を憂え、臣下の四嶽に誰に治めさせるかを問うた。みなが鯀を推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、一族を損なっている」と反対したが、四嶽は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、9年たっても成果がなかった。
『十八史略』によれば、平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。
別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。この時、太陽の中には三本足の烏がいて(八咫烏)、黒点を謂わんとするものであるという。
舜への禅譲
堯には丹朱と言う息子がいたが、臣下から推薦者を挙げさせた。放斉は丹朱を挙げ、驩兜は共工を挙げたが、堯は二人とも退けた。みなが虞舜(舜)を跡継ぎに挙げ、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いていると言った。堯は興味を示し、二人の娘を嫁した。
それから民と官吏を3年間治めさせたところ、功績が著しかったため、舜に譲位することにした。舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。舜の願いにより、驩兜、共工、鯀、三苗を四方に流した。20年後に完全に政治を引退し、8年経った頃に死んだ。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が即位した。
堯舜の伝説の形成
舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報は2000年に山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。
また1993年に郭店一号楚墓から発見された竹簡には、堯や舜の事跡が記録されており、注目される。
堯舜伝説の異説
唐代の歴史家・劉知幾は、その著書・『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。
『山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。
鼓腹撃壌
堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て、自分の耳目で確かめようとした。
ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。
原文 書き下し文 現代語訳
日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力何有於我哉
日出でて作(な)し、
日入りて息(いこ)ふ。
井を鑿ちて飲み、
田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。
日の出と共に働きに出て、
日の入と共に休みに帰る。
水を飲みたければ井戸を掘って飲み、
飯を食いたければ田畑を耕して食う。
帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか。
この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。
舜(しゅん)は、中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう。子孫は媯水のほとりに住み媯(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。
舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くに亡くして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために、隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。
堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会になるほどだった。
そんな中で、舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら、舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。
この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。
帝位についた舜は、洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。
南風歌という歌を作ったと言われている。
陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。
ちなみに白川静は、舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。
出典 Wikipedia
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