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日本人は「無宗教」であるなどといいますが、とんでもない話で、日本人ほど伝統的な宗教を守っている民族は他にないくらいなのです。ただ、その伝統的な宗教というのは「生活習慣」となってしまっており「宗教」として意識されるものではなくなっているのです。ですから私達は「無宗教」だと思いこんでしまったのですが、「無」なのではなくむしろ「無意識」的なものなのだと言えます。
実際、「生活習慣」は殆ど意識されませんが、それを形成しているのが日本の伝統的民族の宗教なのです。そこで、この章ではその「生活習慣となって、表面には隠れている日本の伝統の宗教」を見ていきます。
その日本の伝統的宗教とは「神道」ではないか、と多くの人が思います。確かにそうではあるのですが、ただし、この神道というのは実体がはっきりしないのです。そこで整理してみますが、ここも様々な整理の仕方や命名の仕方があって、一様ではありません。とりあえず、以下のようにしておきます。
1.古神道
「古い」というより、むしろ「根源」といったような意味です。これは一般民衆のレベルにあって「理論」などは存在せず、ようするに「自然崇拝」、「家・集団組織」の観念のもとに「祭儀」をおこなう場面のもので、これは宗教という意識をもたせず、むしろ人々の「生活習慣」となって現れてくるものです。この章で取り扱うのは、この場面のものとなります。
2. 大和朝廷の神道
これは『古事記』、『日本書紀』の「神々の体系」と、それに基づく「神道組織」ですが、天皇支配の正当性と貴族たちの職能と位置付けを語ったものであり、「神話」という形で伝えられたため、しばしば「日本神話」と紹介されますが、民衆はほとんど内容も神のあり方も知りません。ですから、これはあくまで「朝廷のもの」という性格しか持っていないのです。ただし「朝廷のもの」ですから、当然これは朝廷によって日本全体のものとされて、「神社」の神の多くは、ここの神様たちとなります。
3. 学派神道
これは伊勢神道とか吉田神道のように、神官が神道というものを思想化しようとしたもので、神社なりに「神」というものの位置付けを試みたものです。しかし一般庶民は全く知らず、ただ神社やそれに関係する「神官・学者の論」でした。ただし、ここに神社の形成や発展史、社会的位置付けの論などがありますので、日本史学の方では重要視されています。また、江戸後期の本居宣長などの「復古神道」は日本神道の在り方を根本的に見ようとしたばかりでなく、国家神道との関係でも非常に重要な位置を占めています。
4. 教派神道
これは明治時代になって、神道が「国家神道」として国家イデオロギーにされていったのに反発し、神道の「宗教性」を強調し「宗教教団」をつくっていったものを言います。大きなものに13派ありますが、私たちになじみのところでは「天理教」、「御岳教」、「大隅教」などが、この立場にあります(ただし、難しく言うといろいろ議論があります)
5. 国家神道
この名前でまず理解されるのが、明治以来戦前までの「日本の政治イデオロギー」で、日本は「神の国」として世界の中心にあり、諸国はすべて日本の支配下にあるべきとした「日本国家主義・軍国主義」の思想的基盤です。この思想に基づいてアジアを一つにまとめようとしたのが「大東亜共栄圏」の思想で、こうして日本は太平洋戦争へと入って行ったとされます。
そのため大戦後この思想は廃棄され、天皇の「人間宣言」などが行われたのですが、現在でも「神道」というとこれが意味されることが多く、そのため「神道全体」が偏った見方をされています。というのも、現在でもこの思想を復活したいと考えている保守的な社会的リーダーが、たくさんいるからです。
6. 神仏習合の神道思想
これは当初、仏教側が神道を取り入れ、自分の下に位置付けるために作り出した思想で、天台宗の立場のものとして「山王神道」、また真言宗の立場から「両部神道」などが説かれました。無論これに反論し、逆の立場で神道を論じる立場も生じています。いずれにせよ、日本の宗教意識を探る上で大事です。
以上のように、ひと口で「神道」といっても、その意味内容は様々だといえます。一般に「神道」というとやはり「国家神道」がイメージされます。国家によって日本人全体に教育されてしまったからです。
しかし私たちに「なじみのもの」といえば、それはいうまでもなく「古神道」となります。これが「一般庶民」の神道であり、今日にまで私たちの生活習慣に深く根を下ろしているものです。「生活習慣」ですから、なかなか「宗教」とは意識されないのですが、そうした「習慣」を作り上げたのが、この「根源の神道」なのです。
他の神道は、この「根源の神道」をベースにし、意識的に一部を強調したり、自分の主張に都合よく「改変したり」、「付け足したり」、あるいは「別途に物語を作って」形成したものです。しかし、「根源の神道」というのは一般庶民の生活習慣そのものですので、実際、「宗教として意識されない」ということがあります。このことは重要な意味をもっていますので、取り敢えずそういうこととして心にとめておいて下さい。ということは「神の姿も朧ではっきりしていない」ということを含んでいるからです。
現代の日本人にとって「日本の神」は、はっきりしていないというのは実感されているでしょうが、これは「現代」だからということではなく、「元来が」そういう性格なのだということなのです。日本の神というのは「世界一姿が隠れている神」なのです。
こういうと、『古事記』や『日本書紀』の神々を引き合いに出して反論してくる人もいるでしょう。しかし、これは「古神道」とはいえません。むしろ、「大和朝廷の国家神道」であって、天皇家の由来とその支配の正当性、貴族たちの由来とその仕事・職分の位置付けが、その内容となっているのです。
つまり、ここでは「天皇はじめ貴族」の由来・職分が問題であったため、神々も「その先祖」として語られてくるのですが、それは、「天皇家の由来物語」に登場する主人公と脇役たちといった性格を持ち、決して「日本民衆」の神とは言えないのです。
つまり、『古事記』や『日本書紀』の神々とは「朝廷の由来を語るもの」でしかなく、実態として日本人の中に「生きている」神ではないのです。むろん、朝廷の先祖ですから「神々として祭られる」ということになりましたが、一般の庶民はほとんどその神々を知りません。
「支配者の思想」ですから、被支配者たる一般庶民に影響しなかった筈はないのですが、この始末なのです。これは「現代だから」なのではなく、大昔からなのです。したがって、この『古事記』の神は別に取り扱われねばならない問題だ、としなければならないでしょう。
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