2021/09/20

ヤマト王権(3)

 

解釈

日本列島に住む人々が「倭・倭人」と呼称されるに至った由来には、いくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。

 

平安時代初期の『弘仁私記』序には、ある人の説として倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。

 

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。現在でも、ピグミーマーモセットの中国語表記は「倭」で、倭は小ささを表す言葉である。

 

新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」、「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。

 

また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。さらに、本居宣長も『国号考』で、倭の由来が不詳であることを述べている。

 

神野志隆光は、倭の意味は未だ不明とするのが妥当としている。

 

悪字・蔑称説

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。

 

『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。

 

なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては、瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)という呼称がある。瀛州とは、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。

 

倭の国々

冒頭で掲げたように、「」には現在の西日本および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」、つまり西日本における小国分立時代の国々について若干ふれる。

 

『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市・春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが、須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは、紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。

 

伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている。

 

紀元前1世紀代に、このような国々が成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とする国が成立していたものと考えられる。

 

「朝廷」をめぐって

「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。

 

たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は、継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。

 

「国家」「政権」「王権」「朝廷」

関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷<王権<政権<国家という図式を提示しているが、しかし一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している。

 

用語「ヤマト王権」について

古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』、『日本書紀』の天皇系譜では、ほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。

 

山尾は、また別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。

 

いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された、北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」、「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。

 

また、山尾によれば、

 

190年代-260年代 王権の胎動期。

270年頃-370年頃 初期王権時代。

370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)

という時代区分をおこなっている。

 

この用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない。

 

「大和朝廷」

大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。

 

(1)律令国家成立以前に、奈良盆地を本拠としていた有力な政治勢力およびその政治組織。

(2)大和時代(古墳時代)の政府・政権。「ヤマト王権」。

(3)飛鳥時代、または古墳時代後半の天子(天皇)を中心とする、官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。

 

この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。

 

現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている。

 

なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。

 

たとえば、

 

      安康天皇以前を「ヤマト王権」、5世紀後半の雄略天皇以後を「ヤマト朝廷」 - 平野邦雄

      宣化天皇以前を「倭王権」または「大和王権」、6世紀中葉の欽明天皇以後を「大和朝廷」 - 鬼頭清明

 

など。

出典 Wikipedia

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