2021/09/11

ヤマト王権(2)

語源

やまと」の語源は諸説ある。

 

      山のふもと。

      山に囲まれた地域であるからと言う説。この地域を拠点としたヤマト王権が、元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説。

      「やまと」は、元は「山門」であり、山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説。

      「やまと」は、元は「山跡」とする説。

      三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説。

      邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説。

      「やまと」は、元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。

      アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。

      ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説。

 

用字の変遷

古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「」の字が当てられるようになった。中国では、古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したこと[疑問点ノート]は、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。

 

次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。

 

奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。

 

奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。

 

そして757年(天平宝字元年(818日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき、初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。

 

古墳

大和古墳群がある。

 

その他

夜麻登(やまと)は国のまほろば~」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である(『紀』では、倭の一字でヤマトと読ませている)。

 

この他、『古事記』では、山跡とも表記される。『日本書紀』では、野麻登、椰麼等、夜麻苔などとも表記され、『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。

 

『日本書紀』の記述では、神武東征前に、この国々の中心となるだろうとして、「内つ国」と表記し、大和成立以前では「内つ国」と呼称されていた。

現代において、和文通話表で「や」を送る際に「大和のヤ」という。

 

倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)韓国語でウェ)

 

紀元前から、中国各王朝が日本列島を中心とする地域、およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。

 

「日本」の前身としての「倭」

については、中国正史で記述されている。後漢書倭伝や魏志倭人伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、南斉書倭国伝、梁書倭国伝、隋書倭国伝、北史倭国伝、南史倭国伝などに記述されている。

 

史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。中国人歴史学者の王勇によれば、中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。倭国の領域は、隋書や北史では、東西に五カ月で、南北に三カ月とされる。

 

倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王(キミ)であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。

 

ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも絶えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。

 

日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。

 

「倭」という呼称

『古事記』や『日本書紀』では、倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。魏志倭人伝では、日本は邪馬台国と音文字で表記されている。また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ  もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。

 

奈良時代まで、日本語の「イ」、「エ」、「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と()」と「と()」は通用される例もあり、一概に否定はできない。

 

8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が、最狭義の「ヤマト」である。同地は、椎根津彦を祖とする倭国造の本拠であった。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。

 

737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。

 

「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(75712月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。

 

語義

倭の文字の変遷。下に行くにつれて古い。

解字

」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」、「柔順なさま」、「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよやかな女性」の意。

 

用例

中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した。

説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されている。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている。

 

『隋書』では俀とも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが、詳細は不明である。

 

のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から、同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり、また親鸞も和国と記している。

 

出典 Wikipedia

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