ヤマト王権とは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「王」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。(今の大阪平野や奈良盆地などの大和地方、または邪馬台国九州説では九州)の国が、まわりの国を従えた。
旧来より、一般的に大和朝廷と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。
本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説する。
呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」、「ヤマト政権」、「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。
ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。
名称について
1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。
しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定や年輪年代測定の方法が使用され、一般にその精度が向上されたと評価されたために古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和時代」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となってい。
しかし、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は、実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する。
古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」と記述されるようになる。
しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。
2020年現在、メディアでは「政権」や「王権」の表記もあるが、「朝廷」も使用されており統一されていない。
「大和」をめぐって
「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。
その後、701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。
同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。
「大和(ヤマト)」は
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国号「日本(倭)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
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令制国としての「大和」(上述)
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奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡・十市郡、倭国造)
・
の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3.のヤマトこそ出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。
白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば1.~3.に加えて、4.大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるので、カタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。
一方、関和彦は「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」、「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。
武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の「飛鳥」や「斑鳩」といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は、7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を「大和朝廷」発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。
大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。
ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
範囲の変遷
元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。
さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。
出典 Wikipedia
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