出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
「神」が「生産力」、「生命力」という「力」であるということは、日本の「祭り」を見ればはっきりします。例えば山村の祭りでみると、春になると「山」に籠っていた神様を里に呼び出して「田の神」になってもらいます。これが春祭りです。そして秋になって、お疲れになった神様に収穫物の新鮮なものをお食べただいて、「山」でお休みしてもらうよう感謝の祭りをして送り出します。これが秋祭りの由来です。その他、何かがあると「呼び出して」行事をします。これは漁民でもかわらず、彼等の祭りは「大漁」を祈り、あるいは航海の安全を祈る物です。
その「祭る」時は、神様が「宿る」ものを用意して、その「宿り」に宿ってもらうようしかるべく祈ります。その「宿ったもの」が「神」と認められるのです。この宿らせるものを「依代(よりしろ)」といいます。
一般には「榊」のような常緑樹が使われますが、とくに何でなければならないということはありません。岩を使っていたり、あるいは人形をつかうこともあります。そして、神は通常は「偉大なもの」に宿っているとされ、例えば大岩(この場合を「磐座(いわくら)」と呼びます)とか大木、山、川などがその座とされ、しめ縄でそうであることが示されています。もちろん「海」もそうなりますし、小さな「島」が「神」とされていることもあります。
このしめ縄というのは「その中には何者も入ってはならない」としたバリヤーみたいなものだと思って下さい。こんな具合に「神」というのは人々の繁栄の願いに基づき「祭られる」ものであって、人々の生活に密着して神との関わりの行事は「生活習慣」となっていたのです。ですから、現代でも、「ただの衣食住の場」でしかない都会をのぞき、多くの地方では「祭り」は一般庶民にとって「生活の柱」になっているのです。
人々は「祭り」を通して「地域社会の一員」であることを確認し、地域社会の一員として生活していくのです。これは多くの民族にも見られ、人々が「祭り」が大好きなのは、それがただの「馬鹿騒ぎ」とは違った、ある種の「生活のリズム・人生のリズム」を形成しているものであったからです。
祭りばかりではありません。日本では例えば「家」を建てる時など、敷地の回りに竹を立て縄でグルリと囲んで真ん中に榊の木の枝を立てて、神主さんが榊で作ったハタキの大きなものを振っているのを見ることができます。
また、何かというと神社にいって「お願い」をしたり、御札を買ったり、新車にお祓いをしてもらったりして、そんな具合に「根源の神道」は今に生きているのです。もちろん、家を建てたり、新車を買った時ばかりではありません。私たちは日常的にこの根源の神道と関わっているのです。日本人にとっての二大行事といえる「正月やお盆」というのは、もともと「根源的神道」の行事なのです。正月というのは「年神」を迎えるもので、お盆は「祖霊」を迎えるものです。ただし、お盆は後に仏教が「葬式」を管轄するようになったことから、「祖霊」も仏教が扱うとして「仏教の行事」のようになってしまいました。
こういったものは生活習慣化しており、意識されませんが、しかし私たちは今述べたように、何かあると神社にいって、お賽銭をあげて何か頼みごとをする「意識的行動」をしています。子どもができるよう「お札」をもらい、できたらできたで安産のお守りを買って、生まれるとお宮参りにいき、7・5・3にも神社にお参りし、家を建てるに「地鎮祭」を行い、安全祈願のお祓いをしてもらい、受験となったら「合格祈願」の絵馬を掲げ、といった按配です。そして何かと神社にいっては「うまくいくようお願いこと」をしています。こんな具合に、私たちは私たちの一生の「始め」から神様に世話になり、死ぬ直前まで病気回復の祈願などで世話になって(死んでしまったら、今度だけはお寺ですけど)、一年を神の行事で過ごしているのです。
他方で、「力」としての神が「悪く」出た場合には、人間に大きな災害をもたらします。これを「荒らぶる神」といいますが、この神様が落ち着いて静かにしていてもらうために「鎮の場所」として、神社におさまってもらっている場合があります。先程の菅原道真も、彼が不遇の中に死んだ時、天変地異がおきて雷が皇居に落ちるなどして、それが道真の霊魂のせいだということになって、その霊を鎮めるために彼を神として祭ったのが始めなのです。天から「雷」を落とした怨霊だったので、「天神」として祭られることになったというわけです。このように、日本の神というのは、善きにつけ悪しきにつけ、人知を超えた「力」の象徴だったのです。
また、この「力」、「生命力」、「生産力」という観念は、それに対する「畏怖」の感情をも持たせてくるわけで、「自然の偉大さ」に対する恐れと同時に畏敬の念も持たせます。
こうして自然に対する「祈願、感謝、恐れ、畏怖、畏敬」の念が混じりあった「自然崇拝」という宗教観念を生じさせました。私たち日本人の伝統的宗教観念とは、この「自然崇拝」であってといっていいでしょう。
これを基盤としながら、一方で古来の日本人は「土地」にしがみついて、土地との関係で「神」を見、土地に関わった人間関係、集団として自分達を捕らえ、「土地」を中心に物事を考えていったのです。ですから、日本人にとっての「神」とは「家・村・集団」のものとなり、個人的にはほとんど意識されない神となったのです。こんな具合ですので、「神」といっても「人間的姿」でイメージされることは少なく、したがって、ギリシャの神々のような姿で「人格化」されることがほとんどなかったのです。
そうした日本人の宗教観念を、幾つかの代表的概念を説明することで見ていきたいと思います。この段階で現代の日本人も依然として古代日本人の血を脈々とうけついで、「日本の神」の下の住民であることがより明白になってくる筈です。
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