さて、今の問題とも関連しますが、日本人の神の在り方を説明するのによく引用されて有名なものに、西行法師が伊勢神宮(天皇家の祖先神が祭られている日本の代表的神社)に行った時の歌があるのですが、その内容は
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
つまり
「誰がいらっしゃるのか知らないけれど、なんとなく神々しくて涙がでるなあ」
などというものでした。
西行法師ほどの知識人(鎌倉時代を代表する歌人の一人。もともとは武士であり鳥羽上皇に仕えていたが、後に出家し諸国を遍歴した。1190年没)が、この伊勢神宮の神様(内宮が天照大神、外宮は豊受大神)を知らないとは絶対にあり得ないといえますが、ようするに西行法師が言いたかったことは、日本人にとって「神」ということで大事なのは「名前」ではなく「神々しさ」なのだ、ということなのでしょう。天照大神といえば、天皇家の祖先神なのですから誰でも知っていて不思議はないのに、こう言われてしまうほどなのです。ですから一般庶民がここに祭られている神を知らなくても、あまりとがめられません。
これは、すでに西行法師に先立つ「菅原孝標の娘」による『更級日記』(1020年から1058年までの日記)の中にもあり、そこでは
「常に天照御神を念じ申せ、という人あり、いずこにおわします、神・仏にかはなど……」
(いつも天照大神を拝みなさいという人がいるけれど、だけど、どこにいるんだろう……「神」なんだか「仏」なんだか?………)
などと言われています。
もちろん、ここは「以前は浅はかであった自分はこんな始末であったが、段々分別がついて、やがてどこそこの神と知れるようになったのだが……」という文脈ですから「全然知られない」というわけではないのですけれど、それにしても「分別がついて信心深くならなくては、知るにいたることはない」というのは「神」の存在の在り方としては、はなはだ頼りないといわなければならないでしょう。
こんなのが古代の日本人の神意識であり、これは今日の私たちと全然変わらないとすら言えるでしょう。では日本人の心にある「神」とは、いかなるものなのでしょうか。
それは今紹介した、西行法師の歌に秘密が隠されています。すなわち、「名前」など知られなくてもよい、はっきり言ってしまえば「名前などなくてもよい」ものなのです。ということは、仮に「名前」が付けられて表現されても、それらの神々に本質的な区別などみられない、ということになります。
「神様ならそれでいい」のであって「誰」でなければならないという発想は持たれないということです。
私たちも、神社にお参りに行った時「何の神様だから」ということを気にしているでしょうか。そんな人は多分、殆どいないでしょう。「何々の神」というのが、日本ではむしろ特殊な神様なのです。
それは人々の生活にひどく関係している場合、生じることもありますが一般的ではありません。このタイプで一番有名なのは「学問の神様」とされている「天神様」ですが、これはたまたまその天神様が人間であった時の菅原道真が学問の秀才であったからそうされてしまっただけで、彼が祭られたはじめから「学問の神」として祭られたわけではないのです。
彼は、貶められ裏切られて不遇のうちに死んだと考えられ、死んだ時に都に「雷」が落ちて災厄が生じ、それは彼の怨念による「祟り」だとされて「天神(雷をおとしたのだから)」として「神として祭り上げ」、静かにしていてもらおうとして「神格化」されたものです。それが後になって、彼の「学問に秀でていた」という特性がたまたま注目されて「学問の神」にされただけの話です。
同様の特性は、例えば商売の神とか何とかの神様にみられますが、これは全く本質的なのではなくて、偶然のことなのです。縁結びの神として有名な出雲大社にしても同様です。ここは本来、大勢力をもっていた「大国主神」を祭るというだけのことだったのですが、後代になって、たぶん彼の結婚話が有名だったせいでしょう、縁結びにされてしまっただけの話です。
では日本の「神」において何が問題なのかというと、結論的に言うならば、神として「御利益」があるかどうかだけが問題だと言えます。「神として」ということは、人間には知られざること、人の手におえないことにたいして、「力」を貸してくれることが要求されているということなのです。「力」を貸してくれるなら誰であってもよく、誰々などということは問題にされないのです。要するに「人の力を超えたもの」であることだけが要求されているのです。ですから「神」でありさえすればいいのであって「誰」ということは問題にされないのです。
ただ、そうはいっても「力」として大きな方がいいとは思いますから、勢力の強い神社に行く、ということはあり、そのため有名になった神社が各地に「支社」を持つなどという現象も出てきます。つまり、こちらの方でも力を発揮して下さいと「呼ばれる」のです(これを「勧請(かんじょう)」といいます)。そのため全国各地に稲荷神社や天神様、熊野神社などが見られるわけです。
つまり、日本人にとっての「神」というのは「力の象徴」なのです。これはしかし、民族宗教の基本の在り方でした。「神」というのは「生命力・生産力の象徴」でした。日本の神は、この性格をずっと保ち続けている、世界でも稀な神なのです。
この「神」は私たちに「豊作」をもたらしてくれることが期待され、健康を保持してくれ、「子宝」を授け、家を繁栄させてくれること、「成功」が期待されています。何か困ったことが起きた時はそれを助けてくれ、苦難や悪がこないよう守ってくれることが期待されています。「困った時の神頼み」です。ですから、姿がはっきりしないのです。「力」であって、それ以上人格的な性格をもたないのですから当然です。祭る時は「何か」に「その力を宿らせる」ものなのです。それ自体としての姿など、もともと持っていないのです。
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