「天皇」表記の成立
「天皇」の表記については、大陸からもたらされた道教において、宇宙の最高神とされる「天皇大帝」に由来するとする説が広く知られている。
天皇表記の成立時期は、初出とされる推古紀16年9月の条の「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。」であるとする従来の通説、そのほか天寿国繡帳の「斯帰斯麻宮治天下天皇」(欽明)があり、そして『懐風藻』序文で持統天皇以後についてのみ天皇表記が用いられていることを根拠に、皇后の表記とともに飛鳥浄御原令において規定され、使用されるようになったという2通りの説がある。近年では、後者が有力とされる。
君主の公的な表記としての「天皇」の採用は、天武朝であった可能性が高いとされる。唐の高宗が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されている。
「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持つが、天武の施政には道教的色彩が認められ、天武が天皇表記を用い始めたとする説を補強している。
飛鳥京跡から「大津皇」、「津皇」、「皇子」などの文字の見える木簡の削り屑が出土している。これらは天武の子大津皇子を指すと解釈されており、同時出土の他の木簡から天武10年(681年)のものと考えられている。天武10年に皇子表記が使用されていることは、それ以前に天皇表記が用いられていることの証左だと考えられている。
なお、「天皇」という表記の訓みは“スメラミコト”、“スメロキ”が当てられている。“スメル”については「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されて、現在も判然としていない。万葉集には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が“オオキミ”、5例が“スメロキ”と訓ませている。それぞれの文意の比較から“オオキミ”は当代の天皇、“スメロキ”は過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている。
ヤマト王権の歴史
弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態が続いたとみられる。
また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあっては、もっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。
墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方や日向(宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。
方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長が現れたことがうかがえる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など、宝器として用いられる青銅器の種類の違いにも表れている。
邪馬台国と女王卑弥呼
『魏志』倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ、国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体のことであろう)は卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれたとし、「親魏倭王」印を授与したことを記している。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人が置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。
邪馬台国の所在地については「近畿説」と「九州説」があるが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州説を採用すれば北部九州一帯の地域連合ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。
邪馬台国と狗奴国の抗争
倭では、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、247年(正始8年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって女王を諭したとしている。また『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死の後は男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(壹與、後代の史書では台与(臺與))が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用されている『晋起居注』(現存しない)には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王は台与と考えられている。したがって『日本書紀』としては、台与の行動は神功皇后の事績と想定している可能性がある。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では、266年の倭人の朝貢は書かれているが女王という記述は無い。
尚、狗奴国の所在地については、邪馬台国の南方にある。『魏志』では、邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には会稽がある。邪馬台国の北西には帯方郡、北方には伊都国があると記述されている。
邪馬台国畿内説
国立民族学博物館は、炭素年代測定により古墳の成立時期は3世紀末に遡るとし、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「ヤマト王権」に繋がる可能性が高くなったとしているが、炭素年代測定法には50年ないし100年古く推定される誤差が明らかとなり、依然として真偽について議論が続いている。
出典 Wikipedia
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