邪馬台国連合と纒向遺跡
白石太一郎は、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との合体に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」と述べている。
その根拠として奈良県の纒向遺跡が、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとしている。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画の痕跡とされる遺構が認められ、運河などの土木工事もおこなわれており、政治都市として祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに、ごく少数ながら北部九州の土器が搬入されており、また広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよぶ7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡の規模を上回る可能性があるとしている。武光誠は、纒向遺跡こそが「大和朝廷」の発祥の地としている。
纒向石塚古墳など、帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称する)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもち、また山陰地方(出雲)の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など、各地域の文化を総合的に継承しているとする。白石太一郎は、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、重要な位置を占めていたとしている。
邪馬台国九州説の立場から見た纒向遺跡
しかし魏志倭人伝によれば、邪馬台国は糸島に比定される伊都国の南にあり、伊都国に一大率を置き諸国を検察したとされ、九州でしか出土していない鉄器や絹を産するとされており、また海に近く海人が海産物を採取していた記載がある。さらに、纒向遺跡の出土遺物は九州、朝鮮由来の物が乏しく、倭人伝に書かれる大陸との活発な交易の跡が見られず、また遺跡自体が海と離れた内陸部にある。
奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功は、朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
また糸島の平原遺跡から出土し、三種の神器の八咫の鏡と同じ大きさと様式で関連が問題となる大型内行花文鏡の出土があり、邪馬台国の有力な候補地である久留米には、無槨有棺で殉葬跡との説もある多数の集団墓・甕棺を持ち、規模や形状も記録に近いとされる祇園山古墳の存在からも、邪馬台国九州説も依然として有力である。この説を取る場合、邪馬台国と畿内で発達したヤマト政権の関係において、九州にある邪馬台国が滅亡したのか、あるいは神話の如く畿内に東遷してヤマト政権となったのかが問題となる。
ヤマト「王権」の成立
ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現と、その広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉など若干の異同はある。ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる一方、大王を中心とした中央集権国家であったと見る意見もある。
3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。ただし炭素年代測定や年輪年代学の技術的欠点や、測定値と文献記録との大きな乖離などからも、従来の土器編年に基づいた4世紀出現を唱える意見もある。
箸墓古墳(北西方向から)
こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考える意見がある。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして、北部九州にいたる地域である。
一方、上述のように4世紀頃は崇神天皇の在位年代と重なるものと見られており、同朝の四道将軍説話や、続く景行天皇朝の倭建命の東国遠征の経路上に纏まって古墳が出現することから、地域連合ではなく中央豪族を各地に首長(国造)として派遣したために広がったものとする意見もある。
出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある。
「王位」「王権」「王統」
山尾幸久は、「3世紀後半の近畿枢要部に『王位』が創設された公算は大きいが、これを『王権』と呼べるかどうか。まして既に『王統』が実在したのかどうかは今後の研究に委ねられている」と説明しており、「ヤマト王権」の用語の使用について慎重な立場を示している。山尾自身は「王権の確立は雄略の時代、王統の確立は欽明の時代には認められる」との見解を示しているので、このような観点も含めた体系的な国家形成史の研究が求められる。
出典 Wikipedia
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