「ヤマト王権」と邪馬台国の関係
吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係は、むしろ繋がらないと考えられる」と述べている。
吉村は「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。
その論拠として、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤を持たないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する。
前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(現崇神陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である。上述の山尾の指摘と併せ、今後検討していくべき課題といえる。
九州王朝説
弥生中期から、卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあった。しかし存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において学界は「決定的な根拠に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、学界からは根拠が薄いとされている。
多元王朝説・二朝並立説
九州王朝説とは別に、九州の邪馬台国と畿内の大和王権の二朝並立を唱える説、その他古代出雲や吉備にも一定勢力が存在した、と考える多元王朝説もある。二朝並立説では、大和王権が邪馬台国から分岐独立後に勢力を拡大させ、本宗であった邪馬台国を滅ぼしたとする説がある。
王権の展開
前方後円墳体制(古墳時代前期前半)
文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島は、したがって金石文も含めて史料を殆ど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。
定型化した古墳は、遅くとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域が、ヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代が始まり、本格的に古墳が営まれることとなった。
以下、古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定
古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半
この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して、以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。
崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳(4世紀前半)
古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳など様々な墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、最も重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向に及んでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。
前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源を持つ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられ、全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼を行いながら神を祀る司祭者でもあったという性格を表している(祭政一致)。
列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という王と同じ型式の古墳造営と、首長位の継承儀礼を行ってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給を受け、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。
ヤマト連合政権を構成した首長の中で、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置を占めていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとって、フロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。
七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)
4世紀後半に入ると、石上神宮(奈良県)に伝わる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことを表す。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると、372年のこととなる。
いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接な関わりを持ち、この地に産する鉄資源を確保した。そこは、また生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など、日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。
一方、半島北部では満州東部の森林地帯に起源を持つツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下を続けた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し、勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。
この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録が殆ど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態を含め不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が、既に整っていたことが理解できる。
出典 Wikipedia
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