2021/10/06

日本の伝統宗教・神道(4)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 

日本神道の性格

 根源的な神道の性格をみていくのには、さまざまの視点・論の立て方が可能ですが、ここでは以下のような項目でみていきます。

 

1.むすび(産霊、産巣日、産日、産魂などと表記される)

2.祭り

3.地域性(シマ、氏神と氏子、集団帰属性、内と外、集団主義など)

4.日本的倫理(誠・清明心、「和」、村八分、禊と払え、黒不浄と赤不浄、ハレとケとケガレ、祟り、我執など)

5.祖霊。

 

1.「むすび」

 これは、ようするに「産む」ということであって「生産力」、「生命力」を意味しています。つまり「むす」というのが「産む」ということで、霊力をあらわす「ひ」がくっついて「産み成す神霊」といった意味になります。こうした神観念が、「土地」との絡みで考えられた時「産土神(うぶすなかみ)」と表現され、これが後「氏神」や「鎮守神」と同化されていきます。

 

 この具体的な信仰が、農民にとっては、五穀を実らす「」に対する信仰となります。ですから、この性格を今日まで保っている日本神道では、基本的に「神」を「人間の姿」で考えることは、比喩的な表現以外、ほとんどないのです。

 

一方、この「山」に対する信仰は「山そのもの」が「神」と見られるわけではなく、そこに宿っていて実りをもたらす「力」が「神」として崇められているので、したがって、この「神」は里に降りてきて「田の神」になります。

 

この「神」は山や田に宿るだけではなく、自然的な生命力が見られる何にでも宿ります。人々は、そうした「宿っているもの」を、宿っている限りにおいて「神」として祭ったわけです。大きな岩(磐座、いわくらと言いますが、「いわ」というのは本来は「堅固」なるものの意味で、「神が鎮座まします座」といった意味です)や大木(この場合、「ひもろぎ」と呼び、神霊たる「ひ」が「籠る(もる)」「木」と説明されます)。普通には「榊」が一般ですが、本来は常緑樹ならなんでもよいものでした。正月に立てる「門松」も「年神」を宿らせるものです。

 

 これがすべての基本ですから、大和朝廷が自分達を語ろうとした時も、天皇家自体がそうした「むすびを司る」ものである、ということを語ってくるのも全く当然でした。なぜなら、そうしなければ「民衆の王」であることすら主張できません。つまり「皇祖」は「太陽神・天照大神」で、地上に降りたのは孫の「ニニギの命」といわれますが、これは「」に関わる名前であり、彼がこの日本に降りてくるのも「生産力」を表す「タカミムスビの神」の命という形になっているのです。こうして、「天皇」自体が「稲をもたらすもの」とし、日本全土に君臨するいわれが語られたことになるのです。

 

2.祭り

 日本の神が「むすび」という「生産力の神」だということは、その「神」を「祭る」というのも基本的に「生産」に関わってくるわけで、それが日本の「祭り」の大きな特色になります。すなわち、祭りというのは「神」を招き、その意思を明らかにし、それに付随して神を供応して喜ばせ、「力」をつけてもらう一方、自分達もその「力」に与かって「繁栄」を促進しようというものだったのです。

 

つまり「祭り」とは本来、神様を迎え神の託宣を仰ぐものでした。神様の「意思を明らかにしよう」というもので、ここから必然的に「祈願」が行われるようになり、それに伴い「捧げ物」がされるようになったと考えられています。ですから、祭りはもともと「神の意思を明らかにするための術・業」が主体で、ですから祭りには「歌舞」が中心的役割を果たしているのです。

 

 つまり「歌舞」とは「神の意思が体現」される場であったのです。シャーマンとおなじ役割を持ったものです。間違っても「人々を慰めるためのショー」などではありませんでした。

 

また、祭りは様々の形態を持つようになりますが、農民の「生産祈願」型で説明してみると、祭りというのは「収穫」に関わるのが主体です。人々は「種蒔き」の時期に神を呼んで祭り(春です)、収穫時には(秋)その「初穂」を神に捧げます(ちなみに、これを祭儀として公式にしたものは「神嘗祭(かんなめさい)」といい、最大のものは伊勢神宮で10月15~16日に外宮で、16~17日に内宮で行われ、また皇居でも17日に執り行なわれます)。

 

そして、その収穫物を神と共に親しく食して、神の力と合一しようという祭りを行います(これは「新嘗祭(にいなめさい)」といい、11月23日に行われています。この日が「勤労感謝の日」とされ祭日になっているのはこのためで、私たちも神様の「恩恵」をこうむっているわけです)。

 

 この「力」としての神は、要するに「エネルギー」として考えれば分かりやすく、ということになると「充電」してやらねばならないということになります。そこで定期的に神を祭らねばならないということになります。

 

 「まつり」というのは「まつらう」でもいいですが「たてまつる」と同義だと思っても構いません。祭りというのは「神様」に「奉る」とも解され、この筋で説明すれば、それは神を喜ばせるもの、力を充電して差し上げるためなのでした。それと同時に自分達もその力に与かろうというのですから、この神が力で充満していなくては困るわけで、祭りというのは大掛かりなものになったのです。こうして、祭りというのはまず「汚れ」を払って、神官が神を招き寄せて神が宿るべき「依代(よりしろ)」に神を宿らせ、食事(神饌といいます)を差し上げ、歌舞で神意を問い、春祭りなら農耕の所作を演じて豊作を願ったりします。

 

 また「みこし」は祭りにつきものですが、これは要するに「持ち運び用神社」ということで、ここに神がおります。この「みこし」を地域内全部に運んでいくことで「神様の力」は全域に及ぶことができるわけです。この時、神様の力を強くしてやるために「みこし」を激しく振って奮い立たせます。この時の掛け声に種類があり、例えば歌にある「モメモメ」というのは大きく激しく上下左右に振ることをいい、「サセサセ」というのは高く担ぎ挙げグルグル回すような動きで、交差点や社殿前の広場などでやっています。みこし同士が喧嘩するのは、神様を鼓舞し強くするためであったり、地域内の集団の「自己主張」であったり「占い(つまり勝ったが豊作になる、など)」であったりすることもあります。祭りに喧嘩がつきものなのは、こんな事情もあったのです。

 

 こうして、今度は神様との「交歓」の儀式で「直会(なおらい)」といいますが、ようするに「飲んだり食ったり」です。これは「ご苦労さん会」ではないのでして、神様と同じものを食することによって神様の力に与かり、一方その神の食物と同じ物を「皆で」食することによって「身内」であることを確認し絆を強くするという「大事な儀式」なのです。ですから一人でボソボソ食べていては駄目なわけで一族全員、村中総出でやらなくてはなりません。そして同じ神の下にある地域の皆さんと深い絆を確認するわけです。といっても要するにドンチャン騒ぎですけど、これをやらなくては祭りとは言えません。この「食事の共」というのは、多くの民族に見られる習慣です。

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