2021/10/04

ヘブライの神話(ヘブライ神話21)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 

3.ノアの方舟

 有名な「ノアの方舟」の物語ですが、神は「悪」に染まった人類を滅ぼそうとして大洪水で人類を滅ぼしたけれど「神を敬うノア」だけは助けられたとする「神の罰」と「神に従う者の救済の物語」となります。

 

 物語の内容はこれですべて尽きており、神の決意からノアへの忠告、ノアが船を造って神の言いつけ通り動物たちをつがいでその船に乗せ、全部乗せたところで何日も雨が降って大地は水の底に沈み、頃合いを見てノアが鳥を飛ばして水が引いたことを確かめ、船から出て神に感謝し、ここで神はノアにもう洪水を起こして人類を滅ぼすことは止めにするという約束をして、そのしるしに「虹」を現したというものです。

 

 はじめの「世界の創造」についてはすでにシュメール神話にあり、ペルシャの「ゾロアスター教」にもあって、中東・オリエントでは一般的な思想です。

 

 二番目の「人間の創造」も同様です。そして「人間の弱さ」という思考もすでに「ギルガメシュ叙事詩」にあったものです。ただ、ここから人間の人生の目的をどう汲み取っていくかという「解釈」のところで「ユダヤ教」の独自性が示されてくるのでした。

 

 三番目の「大洪水による人間の破滅」と「それを免れる人間」の物語も、ギルガメシュ叙事詩にそのまま存在していました。そして、ここに「人間の希望」を見ていくという「解釈」が、ユダヤ教のユダヤ教たる所以となっていくのでした。

 

ユダヤ教の性格

 ここで、そのユダヤ教の「解釈」の基盤となる精神的背景が重要となるわけです。先ず私達は、このユダヤ教が中東・オリエントに展開していた「遊牧民」のものであったことに注意しておきましょう。そして、ここから世界宗教としてのキリスト教とイスラームが発生してきたわけですが、こうした性格からしてイスラームの方がより強くユダヤ教の性格を受け継いでいるということも、あらかじめ指摘しておきましょう。

 

 その性格というのは、これらの宗教は元来「砂漠の民」のもので、基本の構造は砂漠という貧しく過酷な風土の中で困窮の生活をおくらなければならなかったヘブライの民(つまり「貧民の放牧・流浪者」)が、自分達の悲惨と苦労しなければならないことの必然性を説明して現在の境遇に意味を与え、さらに現在得られない「幸い」を未来において得られるとする「希望」を語ることで、自分たちが生きることの支えとするような性格をもった宗教だと言えます。

 

 すなわち、現在の悲惨と苦難の原因として、自分達の祖となる「人類の祖」が「神に背いて(これがアダムとイヴの物語の性格です)」この悲惨な地上に「追放」されたということを見て、自分達の「悲惨さ苦難はやむを得ないこと」として説明し、その「神に従う」ことによってやがて「神に救済され」、「約束の地」を得て幸せとなれるという「希望」を語るのが、ユダヤ教の本質なのです。つまり「ユダヤ教」というのは、本質的に「未来における現実的社会の繁栄・幸せ」を目的とする宗教なのであって、この性格は今日でも変わりません。

 

 これは「豊壌の国」である日本とは対極にある考え方といってよく、日本のように自然に恵まれて、自然に従っていれば良いなどという考えは、どこからも生じる筈もありませんでした。なぜならそんなことをしていたら飢えて死ぬだけでしたから。自然は恵みをもたらさないものだったのです。ですから、この地上は「追放の地、窮乏の地」と捕らえられ、初めから過酷な労働が強いられるのだ、と理解されていたのです。

 

 しかし、それだけではやっていられませんから「やがて幸せが到来する」という希望を持たなくてはなりませんでした。その希望を叶えてくれるのは「」しかいません。人知では、砂漠を緑の野に変えることはできないからです。そうなったら「神」にすがるしか手がありません。

 

「神」も駄目とか「神などいない」となったら「完全な絶望」です。幸せは永遠に来ない、そうなったら「生きる希望」もなくなり「生きている意味もない」ということになります。ですからヘブライの民の「神」に対する思いは、日本人にはとうてい理解できないほどに強いのです。現在、この姿勢は同じ「砂漠の民」であったイスラームに見られます。

 

 ですから「ユダヤ教」の時代になって、神は「唯一で、万能な創造者」という観念が生まれたと言えます。神とは、この地上の「完全なる支配者」とされていきます。ということになると、この地上・宇宙も「神に完全に依存している」とされなければなりません。しかもセム族には「創造神」という概念がすでにあったのですから、この創造神が「唯一なる完全神」とされてくるのは自然なことでした。

 

 こうして「人類はこの絶対なる神に服従」することが必然とされました。「いいつけを守らなかったら」どうなるか。希望は「剥奪」されます。こうなっては大変です。ここから「服従と罰」の考えが出てきます。こうしてユダヤ教では「神の言いつけ、つまり戒律を守る」ということが絶対の教えとされていったのです。ですから、ユダヤ教は「戒律主義」を徹底しようとして、その形式性がイエスによって糾弾されてしまうほどになるのですが、戒律主義は必然的なものだったのです。こんな具合にして「創造主」としての神、やがて「救済」してくれる神、しかし「見張っていて罰を与えてくる神」などというものに「ユダヤ教」の民は出会っていったのでした。

 

一般にはユダヤにおける「神と人間との関係」は、ちょうど「王と人民」との関係として理解すると分かり易いと言われている。すなわち「たくさんいる族長の中で、自分だけをすべての部族の上に立つ絶対的な君主とせよ」という命令とするわけであり、これは「オリエント的専制君主政体」と裏腹になっていると説明される。つまりイスラエル民族の場合「12部族」があったわけであるが、その「12の部族長」の中で「ユダ部族の族長、ダビデ」を「すべてのイスラエル民族の王」と認めるという形で古代イスラエル国家が形成されたわけで、「神」の場合も当時オリエント世界に一般的であった「バール神」とか「イシュタル女神」を神として認めず「自分ヤハゥエ」だけを神として認めよ、という命令と理解するわけである。

 

こうした「専制君主的」な存在であるため、この神は「男性的」な姿をしていて、さらに「自分に従えば良し」とするが「従わない場合は、永遠に呪ってやる」といった「妬み深い」神として現れると説明するわけです。

0 件のコメント:

コメントを投稿