出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
3.神と地域性、シマ、氏神と氏子、集団帰属性
今、祭りをみたわけですが、この「祭り」にもう一つ大きな特色がみられます。それは「地域性」ということです。祭りは、一定の地域に限定されるのです。ということは「神様」も地域限定性があるということなのです。これは日本の古神道に特徴的なこととして、理解しておく必要があるでしょう。
もちろん「天皇家の神」は日本全体に及ぶとしますが、それは天皇が日本全体を支配領域とするからで、しかしだからといって各地方の神がなくなるということにはなりません。地方毎に別にその地域を支配する神がおり、これは限りなく「細分化」します。ですから「神様の数」も限りなくなってしまうのです。その神様の力は、自分の領域の外には及ばないのです。
この、神がその「領域を占める」働きのことを「シル」といいますが、これは要するに注連縄を張って境界の限定された空間(シマ、クニ)を示し、それを自分の地として「占めて」他者の侵入を許さない、という意味となります。分かりやすくいえば「縄張り」のことです。日本の神というのは、こうした「縄張り」をもっているということです。
こうした構造をはっきり示しているのが「氏神」、「氏子」という概念であり、ある地域にはその地域の守り神として「氏神」がおり、その住民はその地域の神の「氏子」として認識されます。そして「氏神」は、その地域の「氏子によってのみ」祭られ、その氏子にのみ恵みを与えるということになっています。この関係にはっきりみられるように、日本の神は「家族、一族、部族」の神という性格が強いのです(ただし、これは文字通り血縁的一族と限定されるわけではなく、土地に結び付けられた集団とみなしていいです)
この、本来は「氏族の神」であったと考えられる「氏神」は「土地」に絡むことから「産土神」と同化し、また「土地の守護神」である「鎮守の神」とも同化し「その土地を守り、豊かさをもたらす」という理解となっていきました。ですから、他の神に属している者に対しては、自分達の集団の人間として受け入れるということはしません。神は「自分とは違った神の氏子」によって祭られたところで喜ぶ筈がなく、したがって恵みを与えてやることもない筈だからです。
これは「意地悪」でそうしているのではなく、「地域のものとして各人は認識される」という、日本人の「人間観」ですので、なかなかなくなりません。つまり、人間を集団の一員として見、個人として見るという見方がないのです。
何故「氏子」ということが大切なのかというと、集団を維持・繁栄させることが日本の神の使命ですから、集団構成員はその「神への帰属意識」を持つことが要請され、それに拘るからです。これが「社会倫理」とされます。日本人の「群れたがる」性格は、こんなところに原因があり、何をするにも「仲間と一緒」にし、思い切ったことは「集団でなければ」やれない、という性格を持っているのもここに原因があります。
「仲間意識」というより、むしろ「独立的自己の確立」という概念自体がないのです。日本人の言い方として「我々日本人は……」という言い方がよくされるということが指摘されていますが、これは「自分一人では責任はとれません」ということの裏返しの表現とも言えます。実際、日本人は古来「集団の意志決定において生きてきた」と言えます。この「集団帰属性」は社会倫理に伴って、日本人の倫理・道徳観を育成してきました。いうまでもなく「集団・社会優先の倫理」です。
ここからまた、日本人論の中でよく指摘される「内・外」という概念が出てきます。ある地域の中で同じ神の下にある人々が「内」であり、その外側の人々はすべて「外」となります。そして「内」にあるものは、すべて「一族」と見なされます。ここから、外人に対する特殊なものの見方が生じたり、「排他性」が指摘されることにもなります。つまり「福は内」の思想といわれているものですが、「自分の所だけに」福を呼び入れ、鬼は外に、つまり他の地域に行ってくれ、ということです。
一方、この「内」という思想の延長上に「日本民族単一論」というものが主張されることがあります。日本民族が南方系と北方系の混交であること、大陸からの民族の流入、また歴史時代になっても、特に上流階級に朝鮮・中国の血が大量に入っていることなどがあっても平気で「単一民族」と言ってきますが、この時の意味は「人種として単一」という意味ではないのです。むしろ「日本人として認められ、この日本の神のもとにある人々はみな同じ」といったような意味合いなのです。日本民族は「単一」だからアメリカのような民族問題などない、と考える日本人が非常に多いのはこんな事情があるからです。
内なるものの長所
なぜそうなったのかというと、「内」というのは「家、一族」と見なされるということですから、家族的な繋がりと絆が生じ、「助け合い」の精神が生じてくるのです。家族ですから、何といっても安心です。ここに寄り掛かっていれば、何か事があっても助けてもらえます。「寄らば大樹のかげ」というわけです。力が足りない時は、力を貸してくれます。誰かに出し抜かれるということもありません。こうした「一体感、安心感」が何よりなのです。そして「強い」のです。
毛利元就ではありませんが「三本の矢」になっているのです。とにかく、自分の分を尽くしていれば、それが大したことではなくても、集まって大きくなっているのです。ですから孤独に頑張らなくてもいいのです。自分であれこれ考え工夫しなくても、全体からやれといわれたことだけやっていればいいのです。つまり「効率的」なのです。
個人個人の戦う「競争社会」では負けたら悲惨ですが、そういうこともありません。横並びで、皆で進んでいこうというわけです。日本企業の「護送船団」方式というのがこれです。少々失敗しても、他が助けてくれるシステムになっているのです。これが日本をここまで強く安定させ、負けても復興が早かった秘密です。ですから日本人は今でも「集団帰属性」が強く、すぐグループをつくろうとします。「どこに属しているか」を気にします。血液型などいい例です。流行に遅れまいとするのもこの精神からです。
皆と一緒でなければ、安心できないのです。日本の女子高校生をみていると「ああ、本当に日本人は昔から変わらないな」と安心したりガッカリしたりします。本当に昔の「伝統的意識そのもの」が観察されるからです。つまり、ここにも長所と同様「短所」もあるのですが、それが相変わらずだという事が観察されてしまうからです。
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