集団主義、つまり個人は問題とならない
短所としては、すでに「外」に対する「排他性」を指摘しておきましたが、他にもあります。すなわち、人の評価を「個人の人格、能力」で判断するのではなく、その人が「属している集団」で判断するということです。たとえば「東大生である」と聞いただけで「立派な人」と思い込んでしまいます。本当は傲慢で立身出世主義の冷たい人間であって、能力もただの暗記得意人間であることもあるのですが、なかなかそれを認めようとはしません。「どこそこ出身」といった時の「どこそこ」だけが問題にされ、「その人個人」は問題にされないのです。
また、そういう判断になるのは、内部的に「均一」と思われているからなのであって、これは実際そう要請されているものなのです。「集団内」の人間は、その集団の「構成員」としてあるのであって「何の某」としてあるのではありません。いってみれば「集団の歯車」なのです。そして歯車なのですから、一人一人は「一個一個」として「管理」されることになります。そうであって、集団の名前が「個人」を表し得るのです。
この「管理」という性格は「集団主義」と切っても切れません。なぜなら、そうして始めて「決められた所に決められたように嵌まっている」という「秩序」が形成し得るからです。これを「和」といいます。ですから、日本人は自分の個性や主張をなかなか表に出しません。でしゃばるな、和を崩すな、という教えが厳然と生きているのです。
4、日本的倫理。
日本人の美徳観、誠・清明心
以上のように、日本では「己を押さえて集団に殉ずる」ということが美徳となってきます。自己主張せず、己の願望や考えなどは捨て、一途に「集団のため」をのみ考え、そのためにのみ働き、集団のためとあらば「泥」をかぶり、あえて「死」をも選び取る、というのが最高の「美徳」なのです。「誠」というのは、そうした「集団への従順の心」をいい、「清明心」というのも「集団に対して、心に疚しいところはない」という意味なのでした。
縦型社会の秩序としての和
今、言及した「和」というのも「内なるものとして」であるのはいうまでもありません。「外」は敵となります。また「和」というのは集団の秩序ということであって「集団は家族」にたとえられますが、本家のお父さんが一番上で、それに弟やおじさんたちがおり、子供たちがいて、使用人がいます。集団は、このように「縦型社会」となっております。
一方で、そのそれぞれの階級のものは横一線でなければなりません。その線を上に出ることは許されないのです(出る杭は打たれます)。ですから、どんなに能力があっても「若造」が上にいくことなど許されません。「年功序列」が、この社会の秩序なのです。
一方、しばしばこの「和」というのは「全体責任」という形になっても現れてきます。昔の武士の家のように、誰かが不始末をしたら一族すべてが罪に問われ切腹させられたり追放されたりしたあれですが、今日では驚くべきことに「学校」に一番よく残っています。いわゆる「班」というやつで、その班の中の一人が忘れ物をしたり何か問題をおこしたら、班員全員が責任を問われるというものです。
村八分
そしてこの「和」は、それに触れたものを「村八分」にするという形の「刑罰」となって現れます。この村八分というのは、知っての通り村人の誰かが村の掟に背いた時に行われる「制裁」です。「八分」というのは当て字で語義は「はじく」だろうといわれていますが、簡単にいってしまえば「仲間外れ」ということです。
これは日本人には徹底的にこたえるもので、村落では「生き死に」に関わってしまいます。今でもそうで「いじめ」は、こういう形で行われています。仲間にいれないどころか「無視」してしまうというわけです。そしてこの「村八分」は明確な罪がなくても、能力、姿・形、身体的特徴、などなど「集団からはみでている」と見なされただけで行われてしまいます(本人にはよく分からないのに、集団、ないしそのリーダーの気に障る、という理由だけで行われ得、それは今日のいじめと変わりません)。
また、これは上の全体責任の裏返しみたいなところがあって、「個人的恨み」を全体で担わせて「個人の責任」を回避しようという卑劣な心もあり(とりわけ現代の「いじめ」に観察される)困った精神が作られてしまったのです。
禊(みそぎ)と祓い(はらい)
「村八分」があるということは「悪」とみなされるものがあるということですが、これに関わって、現代の私たちも良く知っている「禊と祓い」という概念があります。これは要するに「悪を除く」ということですが、日本にはキリスト教的な意味での「罪」すなわち「人間そのものが抱えている本来的罪」といった考え方はありません。人間はそれ自体としては「清らかで優れたもの」だとします。
しかし、それに「汚れ」が降り懸かって「悪く、不浄に」なるのだと考えています。ですから、その「悪」を振り払えば「きれい」になると考えます。その汚れが一つには生命力の枯渇としての「死」であり、その前段階としての「病気」あるいは生命を脅かす「災い」などが悪です。これらは「不浄」なものと認識されます。禊ぎというのは「水や火」で「身をそそいで清らかに」するためであり、「祓い」というのは文字通り「はらいのける」ものだと考えていていいです。
「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」
今の不浄の概念と関係して「ハレ」と「ケ」という概念があります。また、これに加え「ケガレ」という概念があります。「ハレ」というのは、今日でも「ハレ着」という言葉に残り、ケガレはそのまま「けがれている」、「けがらわしい」などという言葉に残っています。この時の「ケ」というのは「力・生産力」を表す「気」であると考えられ、「ケガレ」というのは、この「気が枯れた」という意味であろうとされます。「気が枯れた」時に、これを回復させるために行われるのが「ハレ」の日の行事としての「祭り」だというわけです。
祟り
ですから、こうした祭りをとどこおりなく行わなかった場合や、神に対する侵犯などがあると「祟り」が生ずると考えられました。この祟りというのは日本の場合、非常に強く意識され、神信仰の動機の一つとなっているほどです。それは「災厄」となって現れるのが本来ですが、これが後には個人の霊の祟りまで考えられ、これを鎮めることが重要なこととなり「御霊信仰」などを形成させて行きました。
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