2022/09/13

西ローマ帝国滅亡

出典https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad4

 
395年にテオドシウスが亡くなると長男が東を、次男が西を統治しローマは東西に分裂した。西ローマ帝国はゲルマン民族の侵略に悩まされ、首都をローマからミラノ、そしてラヴェンナに遷した(402)。皇帝がいなくなったローマは、アラリック率いる西ゴート族に蹂躙され(410)455年にはヴァンダル王国のガイセリックに掠奪された。

 

西ローマ帝国は内乱によって衰え、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにとどめを刺された。476年、彼は最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させ、皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝に返上した(西ローマ帝国滅亡)。東ローマ皇帝は、オドアケルにイタリアの統治を任せたが、その後対立し、東ゴート族のテオドリック大王に命じて討伐した(493)。テオドリックはイタリア王を名乗ることが許され、東ゴート王国が誕生した。

 

東ローマ帝国はその後も栄え、15世紀にオスマン帝国に滅ぼされるまで1000年余り存続した。

 

ゲルマン民族の大移動 

375年、フン族に追われた西ゴート族が移動すると、西ゴート族に追われた部族が移動し、玉突きのようなゲルマン民族の大移動が起こった。これらの部族はローマ領内に侵入し、各地に王国を建設した。

ゲルマン民族移動後のエルベ川以東やバルカン半島には、スラブ民族が勢力を拡大していった。

 

西ゴート王国

410年、アラリック率いる西ゴート族は、三日間にわたってローマを略奪した。彼の死後ガリアに移り、トゥールズに王国を建設したが、507年にフランク族に敗れてスペインに追われ、西ゴート王国を建てた。711年、北アフリカから侵入してきたイスラム勢力に滅ぼされる。

 

4世紀になるとローマの力は衰え、ゲルマン民族の大移動が始まった。バルト海のリトアニア付近に住んでいたゲルマン民族の一派西ゴート族は、375年にローマ領内に進入した。当初、ローマの傭兵に雇われていた西ゴート族は次第に力をつけ、410年にはアラリックに率いられてローマ市を制圧した。アラリックの死後、彼らはガリアに移住し、419年にトロサ(トゥールズ)を首都とする西ゴート王国を建設した。

 

西ゴート王国は、ドイツやフランスに勢力を拡大してきたフランク族と対立した。507年のヴィエの戦い(Battle of Vouille)で西ゴートはフランクに敗れ、フランスからイベリア半島に追い払われた。西ゴート王国は、スペインのトレドに逃れた。

 

7世紀になると、北アフリカを制圧したイスラム勢力の活動が活発になり、地中海貿易に頼る西ゴート王国は衰退していった。また、王位をめぐる内紛も深刻で、チンダスビント家のロドリーゴが強引に国王に就任すると、対立するバンパ家は反発、アフリカのイスラム教国に支援を求めた。

 

ブルグント王国

443年、ブルグント族はリヨンにブルグント王国を建てた。その後、フランク王国に滅ぼされた(534)。ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」は、英雄ジークフリートとブルグント族の皇女クリームヒルトの話。

 

フランク王国

西ゴート族をスペインに追い出し、508年にパリを首都とするフランク王国を建設した。

 

アングロサクソン王国

ローマがブリタニアを放棄すると、デンマークやドイツのアングロ・サクソン人がイギリスに渡り、七王国を建てた。

 

東ゴート王国

東ゴート族は、テオドリックに率いられてイタリアに入った。東ローマの要請でオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国した(489)。その後 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝に滅ぼされた(552)

 

ヴァンダル王国

スペインにいたヴァンダル族は、西ゴート族に追われてアフリカに渡った。439年にガイセリックはヴァンダル王国を建て、地中海の海賊となってローマを略奪した。ヴァンダル(vandalvandalism)とは「略奪者」の意味。534年、ユスティニアヌス帝に滅ぼされる。

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