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華北では、五胡系統の王朝が続くので華やかな貴族文化は生まれませんが、実用的な書物が書かれました。
「斉民要術(せいみんようじゅつ)」は農業技術書。
「水経注(すいけいちゅう)」は、地理書ということで教科書には出ています。中国国内に流れる河川沿いの風俗、歴史などを書いたもので、妖怪や怪物も実在のモノとして出てくるのです。実用的な書物とは少し違う感じ。
五胡十六国の支配者である北方、西方の民族は仏教を保護します。招かれて西域から仏僧が渡来します。
仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ)(?~348)、鳩摩羅什(くまらじゅ、クマーラジーヴァ)(344~413)が有名。
仏図澄は、中央アジアの亀慈(クチャ)という都市国家出身です。精力的に中国で仏教を布教しました。
鳩摩羅什は、父親がインド人、母親が亀慈の王女という人。インド留学もした一流の仏教僧でした。五胡十六国時代に中国に渡り活躍するのですが、この人は仏典の翻訳で有名です。
お経はインドのサンスクリット語で書かれている。これでは中国人にはわかりませんから、中国語に翻訳しなければならない。鳩摩羅什は、それをした。大変だったと思うよ。日本が仏教を輸入したときに、日本語訳をしていない。現在でも葬式や法事でお坊さんが読むお経は、漢訳仏典です。つまり、日本には鳩摩羅什は現れなかったのですね。中国が仏教を受け入れる時のような努力を、日本はしていなかったということかもしれません。
仏教遺跡は、北魏時代の石窟寺院を覚える。雲崗(うんこう)、竜門(りゅうもん)の二個所です。雲崗は初期の都平城近郊、竜門は後期の都洛陽の近郊に造られた寺院ですが、ともに岸壁に造られた巨大石仏で有名です。竜門は洛陽に近いので観光コースでもあります。私もいきました。ここには北魏時代から20世紀までずっと石仏が掘られつづけていて、掘られた年代を見ていくだけでも面白い。
唐の時代、日本から遣唐使が行くでしょ。仏教を学ぶための学生も多かった。で、日本から来た学生たちは多分、この竜門の大仏を見たと思うんです。洛陽のすぐ近くですからね。彼らは、そのスケールの大きさに度肝を抜かれたに違いない。そして「いつか日本でも、こんな大仏を造ろう」と思った。そして、できたのが聖武天皇のときの奈良の大仏だ、と私は想像するのです。竜門の大仏と奈良の大仏、どことなく体型、衣装の雰囲気が似ているでしょ。同じルシャナ仏でもある。
インドで生まれた仏教がガンダーラでギリシア文明と融合して仏像を生み、中国に伝わり北魏で造られた大仏が、唐の時代に日本に影響を与え奈良の大仏になった。そういう意味で、まさしく日本は文化伝搬の終着駅なのです。
今年(1999年)、正倉院展にいって来ました。緑色の太くて長い縄が展示されていました。752年に大仏の開眼供養会がおこなわれるのですが、インド人の僧菩提卵那(ぼだいせんな)という人が、大仏の目に墨を入れます。インドの坊さんを呼んでいるんですよ。菩提卵那は人間の腕ぐらいのでっかい筆を使って目を入れるのですが、この筆に縄がつけられているのです。縄はどんどん枝分かれしていて、下の方から開眼式を見ている多くの貴族たちが、その紐の端を握っていたそうです。功徳が伝わるようにね。展示されていたのは、その一番太い縄。当時の人の願いが伝わってくるような、こういう小物に結構感動しました。
宗教では道教が確立、発展したのも北魏の時代です。寇謙之(こうけんし)(365~448)が道教を体系化して北魏の保護を受けて発展しました。
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