出典http://ozawa-katsuhiko.work/
1.ケルト神話の様相
ケルト民族
現在の西欧人の原型は「ゲルマン人」と言えますが、このゲルマン人に先立って現在の西欧に展開し、ゲルマン人に大きな影響を与えつつ少数ながらアイルランドやフランスのブルターニュ地方などに今日まで命脈を保っているのが「ケルト民族」です。最近では、このケルト人がゲルマン人=西欧人に与えた影響の深さが認識される一方、ケルトの民話・神話・文学が発掘されその文学性の豊かさなどが一般にも良く知られるようになり、研究もすすめられるようになりました。また、とりわけ現在のイギリスで問題になっているアイルランド闘争は、アイルランド=ケルト民族を圧迫・迫害し続けてきたゲルマン人=イギリス人に対する反抗という意味があって、問題の根の深さが言われています。
このケルト人の発生ですが、どの民族も始めをたどれば石器時代までいってしまいます。そして古代にあって、現在のヨーロッパの北から中央にかけて展開していたケルト人の場合も、紀元前2000年にはすでにそれなりの部族を形成していたようです。しかし歴史に現れてくるのは、先行して大きな文化を築いていたギリシア・ローマ世界との関係においてですので紀元前6~5世紀くらい、とりわけ紀元前4~3世紀頃からとなります。
実際「ケルト人」という呼び名も古代ギリシア人の呼び名なのであり、ギリシア人はかれらを「ケルトイ」と呼んでいたのでした。ちなみにローマ時代には彼らはローマ人によって「ガラタイないしガリ」と呼ばれています。ローマ文献にしょっちゅうでてくる「ガリア地方」というのは、要するにこのガリ人(ケルト人)の展開していた地方というわけで、南欧を除いたほぼ現在の西欧に相当します。
人種ですが、このケルト人も印欧語族の一派となります。ただケルト人は部族ごとに多方面に散って展開していたため、歴史的に多くの民族との混血が地方ごとに行われた結果、人種的特徴は共通的にいえないようで、言語や宗教などの文化・精神面において、一つの民族と括られるくらいとされています。
古代ケルト人については、ギリシア・ローマ文献が伝えるところがほとんどすべてといえますが、とりわけカエサルの「ガリア戦記(前58~51年にかけての遠征記)」が有名となっています。それらの文献によると、ケルト人は紀元前七世紀頃西欧全体に拡散しはじめ、紀元前五世紀にはその中の一派がブリタニア、現在のイギリスに渡って「ブルトン人」となっています。そして、この五世紀の末頃には民族の大移動が生じています。この中で重要なのがイベリア半島に入った部族で、彼らは先住民族と混交して「ケルト・イベリア人」を形成しています。南ドイツにいた部族のボイイ族は東に移動して「ボヘミア」を形成し、北イタリアに入った部族は「ボノニア」という都市を建設し、これが現在の「ボローニア」というわけです。小アジアに渡った部族は「ガラタイ人」となっていますが、使徒パウロによる「ガラテア書簡」とは、彼らの子孫宛てというわけでした。また、いまだ大帝国を形成する以前のローマに侵入しているのも興味深く、さらに古代ギリシア最大の聖地「デルポイ」まで侵入しておりました。
このように、ケルト人は紀元前200年代には当時の世界に大きな影響を与えていたのでした。しかしカエサルの遠征によってローマに屈服してしまった彼らは、その後衰退の一途を辿り、さらにゲルマン民族のアングロ・サクソンの支配下に屈服し、屈辱の歴史となっていくのでした。
ケルト神話の伝承のありかた
さて、このケルト人の心性・精神を表現している筈の「神話」がここでのテーマとなるわけですが、口承で伝えられていたと考えられるその神話は、大陸のケルト人の場合にあってはローマが彼らを支配してしまった段階で消え去ってしまったようです。カエサルの報告では「ドルイド」とよばれる神官たちがその父なる神を教え、その「神」は「ディス」と呼ばれてガリア人はその子孫であるとしていて、そこではローマのメルクリウスやミネルヴァに相当する神々がいたとされています。
現代の研究者が苦労してその神々を復元して、ギリシア・ローマの神々に相当するものとして数々の神々をあげています。研究者によれば300~400人になるとも言われ、さらに主だったものは70人ほどともされていますが、特に重要なものとして12人が紹介されたりします。ただしこれは、ローマ時代にローマの神々と比較同一視された結果であり、先立するギリシャ神話のオリュンポス12神に適応させた結果とも言えます。
たとえば、ギリシア・ローマのヘルメス・メルキューレ(前者がギリシャ名で、後者がローマ名)に相当する「テウタテス」、アポロン(ギリシャ・ローマとも)に相当する「ベレノス」、アレス・マルスに相当する「エスス」、ゼウス・ジュピターに相当する「タラニス」、ハデス・プルトに相当する「ケルヌノス」、アテネ・ミネルヴァに相当する「ブリギド」などを挙げています。
しかし、ケルトの神々には「人間との関わりの物語」などはなく、神々がそのまま人間であるようなものなので、そんなにすっきりと相当するとは言えないところもあります。要するに言えることは、たくさんの神がいて祭られ犠牲が捧げられて崇拝されていたという、どこの民族にあっても当たり前にあったことくらいです。
他方、この大陸のケルト人に対して、アイルランドなどに渡った「島のケルト部族」の方は相当にしっかりと民族の独自性を残したようで、キリスト教化された後にもその民族の神話・民話を残していきました。ただし神話自体がギリシア神話のようにまとまった体系を持っているわけではなく、世界の始まりについての話しも残されていません。もっとも、こうしたことは世界の神話の多くでも普通のことですから怪しむにはたりません。
またさらに、これは様々の伝承を独自に時代的にもばらばらに筆写した写本文献として残されているわけで、その写本群の間に統一もありません。また仮にこれらすべてが古代の昔は一人の神官によって物語られていたのだとしても、彼は場合に応じて適当な話しを聞かせただけで、はじめから「まとまりのある話」など意識されていたともおもえません。ですからこれらを全体的に統一して物語ることはできないわけです。
参考までに写本を列挙してみると、次のようになります。
アイルランドの写本
「侵略の書」紀元10世紀、「赤牛の書」紀元11世紀、「レンスターの書」紀元12世紀、「バリモートの書」紀元14世紀、「レカン黄書」14世紀。
スコットランドの写本
「ディーアの書」紀元11~12世紀、「リズモアの書」紀元16世紀。
ウェールズの写本
「カーマーゼン黒書」紀元12世紀、「マビオギオン」「ハーゲスト赤書」紀元14世紀。
これらは1700年代になってまとめられ「オシアンの詩」として世に公刊されて有名となり、多くの文人に刺激を与え様々の作品を生み出させ、また「アイルランド文芸復興運動」を引き起こしていったのでした。
これらの物語の特徴は「英雄物語」に帰着するともいえ、優れた英雄の勲し、崇高さ、愛とロマン、悲劇の哀感といったところになります。一体にケルト神話・民話の特徴として、この哀感がいつも感じられるのは侵略者であったローマやゲルマン民族に押されて行く「悲しみや苦しみ、そして復活の希望」といった感情の中で彩られていったのでしょうか。
現在「ケルト神話」という表題で本も出版されていますが、それらは大体「オシアンの詩」に基づき、さらに歴史的に研究されている「ドルイド」のあり方などを付加したものと言えるでしょう。こうした事情を知った上で、ケルト神話に関わる本をひもとくと良いでしょう。ここではその導入ということで、粗筋だけを紹介しておきます。
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